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アドラーに関するkyo_agoのブックマーク (2)

  • 怒りの文化についての考察 - いつの日か霧が晴れて

    怒りの文化 以前書いた記事 怒る習慣はどこから来た? - いつの日か霧が晴れて で触れたとおり、私は、習慣として怒っている人たちの間には、ある種の共通的な文化があると感じている。この記事では、そのことを紹介してみたいと思う。 私がこの文化の存在に気づいたのは、アドラー心理学と出会うよりも2〜3年くらい前のことになる。(従って、このアイディアには必ずしもアドラー心理学に沿わないものも含まれているかもしれない。) 気づいた当初、私はこの文化に自分なりの名前をつけた。その名前は「怒り貨幣経済」である。 「怒り貨幣経済」の特徴 私が思う「怒り貨幣経済」の特徴は次のようになる。 習慣として怒っている人たちは、自分の怒りも他人の怒りも非常に気になる。怒りは基的に着目すべき現象、解決されるべき問題だと考えている。 誰かが怒っていることはある種の「チャレンジ(挑戦)」である。怒りに “正当性” があると

    怒りの文化についての考察 - いつの日か霧が晴れて
  • 「怒り」の探求 - いつの日か霧が晴れて

    怒りやすい自分 世間一般の基準でいえば、私は怒りやすい性質だと思う。 幼い頃、両親に面白そうに「瞬間湯沸かし器ね」と揶揄されたのを覚えている。*1 幼稚園、小学校とステージが変わるごとに昔の友達に「穏やかになったね」と言われていたことも覚えている。 こういうことについて、大学くらいまでは、単なる個性としてそこまで気にも留めていなかった。家族と同じ程度の怒りん坊だったし、むしろ、成長してからは家族の中では比較的怒らないほうに分類できるくらいになったので、特に気にすることはなかった。 怒りの家 私の生まれ育った家では、夕前になると、たいてい母や子供たちの誰かが怒っていた。それも毎日。 別に、虐待などの問題があったというわけではまったくない。良識ある両親、そこそこ自由な教育方針。わたし自身は生まれ育った家を懐かしく感じるし、愛情も、感謝もある。 しかしながら、とにかく夕前になると、誰も怒らな

    「怒り」の探求 - いつの日か霧が晴れて
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