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ブックマーク / www.tapthepop.net (7)

  • ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド〜タランティーノ監督が伝えたかったこと

    『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(Once Upon a Time in Hollywood/2019) 映画作家クエンティン・タランティーノの9作目となる『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(Once Upon a Time in Hollywood/2019)が公開された。今回も自腹で映画館へ観に行った。 1991年、28歳の時に『レザボア・ドッグス』で監督デビューしたタランティーノが、世界のポップカルチャーの記号となったのが94年の『パルプ・フィクション』。その後97年の『ジャッキー・ブラウン』という愛すべき作品を挟み、『キル・ビル』2部作を発表したのが03/04年。自身の作品にお気に入りの映画テレビ音楽・コミックといったカルチャーを次々とサンプリング/オマージュしていく手法は、まさに同時代のヒップホップアーティストのような自由と軽やかさがあった。 そ

    ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド〜タランティーノ監督が伝えたかったこと
  • はっぴいえんどの「夏なんです」は日本語の歌詞にこだわった松本隆による“ラブソング”

    立教大学の学生だった細野晴臣の家に慶應大学に通う松隆が来て、ロックに日語は乗るのだろうかと、アルバム『ジャックスの世界』などを参考にしながら、勉強会に取り組んでいたのは1968年の秋のことだ。 1960年代末期から70年代の初頭にかけて、日語のロックが生まれて来た背景には、欧米のロックに刺激を受けて始まったグループ・サウンズへの反発と失望があった。 スパイダースやブルーコメッツ、ワイルドワンズ、タイガース、テンプターズ、そしてゴールデン・カップスなどのバンドが群雄割拠したグループ・サウンズは、ビートルズが来日した1966年の夏を境に動きが活発化し、翌年から一大ブームの様相を呈していた。 しかし、レコード会社や芸能プロダクションが主導していたために、ブームが過熱するにつれて数が限られたプロの作家が提供する作品ばかりがヒットし、人気が出たまではよかったが楽曲がパターン化して、売れ筋の歌謡

    はっぴいえんどの「夏なんです」は日本語の歌詞にこだわった松本隆による“ラブソング”
  • 「銀河一のアイドルのデビュー曲を作ってください」と菅野よう子からオファーされた松本隆

    隆トリビュートアルバム『風待ちであひませう』を手にして、制作に携わった人たちの思いが伝わってくるブックレットのなかで、詩人の最果タヒさんが書いた素敵な文章に出会った。 松隆の言葉は、歌われること、そしてそれを聴く人がいることを、知っていて、そうして生まれてきたものだった。だから、聴いていると、歌っていると、言葉がとてもしあわせそうに生きて、歌って、踊っている。 書かれてあるそれらの言葉、活字のリズムにハッとして嬉しくなった。 確かに『風待ちであひませう』は最初から最後まで、どの曲も言葉がとてもしあわせそうに生きて、歌って、踊っているアルバムだった。 なかでも3曲目に入っていた「星間飛行」は、クラムボンの創りだしたサウンドと原田郁子のみずみずしいヴォーカルによって、オリジナルとは異なる風が感じられた。 アニメ『マクロスF(フロンティア)』の劇中で、瞬く間にシンデレラ・ストーリーを駆け上

    「銀河一のアイドルのデビュー曲を作ってください」と菅野よう子からオファーされた松本隆
  • B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ

    Home Extra便 B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ - TAP the POP B.B.キング(B.B.King)のブルース 少年時代のB.B.はある日、お金を貯めようと思いついて、舗道に座ってギターを抱えてゴスペルを歌うことにした。すると、通り掛かった男が立ち止まって聞き入りながらハミングをし始めた。いい兆しだ。気分が良くなったので次々と歌い続けた。 「神のご加護がありますように」 男は上機嫌でそう言った。B.B.も同じ台詞を返してチップを待った。 「なかなかうまいぞ、坊主」 「ありがとうございます」 「その調子で歌い続けるこった」 男は肩をポンと叩いて行ってしまった。他の人々のポケットからも1セントたりとも出てこない。そこでB.B.少年は方針を変更。別の日に世俗の歌を弾いて歌ってみた。歌詞など覚えていないので、自分で適当に作った。ゴ

    B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ
  • イントゥ・ザ・ワイルド〜アラスカの荒野に消えた青年が孤独な旅で綴り続けた心の言葉

    『イントゥ・ザ・ワイルド』(INTO THE WILD/2007) 1992年、夏。アメリカの最北部アラスカ州の荒野。捨てられた古いバスの中で一人の若者の遺体がヘラジカのハンターによって発見された。名前はクリストファー・マッカンドレス(以下クリス)、年齢24歳。日記やカメラ、ソローの『ウォールデン/森の生活』など何冊かの小説もそばにあった。 クリスは東海岸の裕福な家庭で育ち、南部のエモリー大学を優秀な成績で卒業。その直後、2万4千ドルの貯金を全額慈善団体に寄付し、1990年のある日突然旅に出た。名前を変えて2年間の放浪の末に遺体が発見されるまで、両親や妹は彼が何処にいるのかもまったく知らされることはなかった。 クリスがなぜ旅に出たのか? なぜ死んだのか?という謎は全米の二ュースになり、ノンフィクション作家のジョン・クラカワーが追跡取材を重ねて1995年に発表した『荒野へ』は大きな反響を呼ん

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  • 勝新太郎が弦の神となった一夜 ~スイス、ロシニエール山荘の奇跡

    なぜ役者の道を選んだのかと聞かれて、「三味線弾きで終わりたくなかったから」と、勝新太郎は答えている。 彼には「杵屋勝丸」というもうひとつの名前があった。 長唄三味線の杵屋勝東治の息子に生まれ、十九歳の若さにして、二代目杵屋勝丸を襲名したという天才奏者として顔である。 社会的な地位からいっても、世間の通りもよかったろうが、最後までひけらかすことはなかった。 そして、苦心のすえ俳優としての名声をえたが、あきたらず、独立プロを立ちあげる。映画の恐さを知らなかったのである。 「作る側にまわると役者はしくじる」映画界の言い伝えを絵に描くようにたどり、採算を度外視した映画作りに走って、一説に十億ともいわれる膨大な借財を抱えたまま、66歳の生涯を閉じた。 千葉県柏市の国立がんセンターで療養中だった彼のベッドのかたわらにも、すぐ手にとれるようにひと竿の三味線が置かれていた。 三味線と縁がきれたわけではない

    勝新太郎が弦の神となった一夜 ~スイス、ロシニエール山荘の奇跡
  • 大瀧詠一が初めて細野晴臣の部屋に入った瞬間、思わず発した言葉とは?

    細野晴臣と大瀧詠一がはじめて出会うのは1967年の春先のことだが、きっかけはもう一人の友人との出会いだった。 その前年の秋、立教大学のキャンパスにある待ち合わせ場所で、細野は指定されたベンチに座っていた。立教高校時代からの友人から、「経済学部におまえみたいに音楽にうるさいやつがいるんだ、紹介するよ」と言われていたからだ。 やがて友人に連れられてやってきた男は、ポツリと「中田です」と名乗った。それからお見合いのような形でボソボソと、探りあうような会話が始まった。 「いまどんなの気に入ってるの?」 「うーん、ポール・サイモンなんか、けっこう」 ――おっ、こいつはできるな。 「ちいさい秋みつけた」や「めだかの学校」「夏の思い出」などの作曲家、中田喜直の甥にあたる血筋に生まれた中田佳彦はギターが上手で、アソシエーションなどのソフト・ロック系にも詳しかった。 お互いの音楽への関心がわかって意気投合し

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