タグ

ブックマーク / blog.goo.ne.jp/kamimagi (8)

  • オタクメディアの場合。フェミニズムというよりホモ内の社会的性(というか立場)の方が適切な気がする。 - モノーキー

    ▼追記:恒例のここより面白いエントリ紹介。 いつのころから新発売3 - ますらおぶり たおやめぶり 『オタクが自身の屈折したマッチョイズムを女性に託してしまう』ことこそが萌えだとオレはいいたいっ! ▼訂正 はてなブックマーク - モノーキー オタクメディアの場合。フェミニズムというよりホモ内の社会的性(というか立場)の方が適切な気がする。 >matuoka 題とはそれるけど自衛隊にホモって言う程いないんですが。 えーと、苦肉の策です。確かにそのとおりです。 まあ、体育会系における権力側のセクハラというかパワハラみたいなのを比喩したかっただけです。 新人に対する洗礼ってやつですね。 ▼一つの美少女(メディア、二次創作という陵辱をされる立場)の対象をオタク仲間(同類=ホモ)で共有する。 男か女かじゃなくて、攻めか受けかで考えた方が良いと思うんですが。 同性であっても、そ

    laiso
    laiso 2007/01/13
  • 良い本を立て続け書いて、自分の能力を過信していた時の東浩紀に憧れる - モノーキー

    オタクが東浩紀へ抱く憎しみは、時代を代表する批評家か哲学家になりうるんじゃないかと言われてた頃の東浩紀への嫉妬ではないか? 言い換えると、幸せ太りする前のイケメン東浩紀へのルサンチマンともいえる。 結局みんな「動物化するポストモダン」出した直後の東浩紀の幼稚性を嫌ってるけど、あの頃の立ち位置に憧れてたりするよね。 ああいう文章はイヤだけど、ああいう仕事はしたい。ああいう立ち位置に立ちたいみたいな。 だから、みんな東浩紀の劣化みたいな文章しか垂れ流せない。俺もか。 「動物化するポストモダン」を出すまでは、確かに凄い文章を書いたって偉い人たちに持て囃されてて実際それだけの価値があったので、見誤るみたいなのはあるんだろうけれど。 ようするに、ギャルゲ論壇の人って「動物化するポストモダン」を出す前の東浩紀になりたいような気がする。 今まで自身の仕事の結果から己の実力を過信してたお陰

    laiso
    laiso 2006/11/07
  • 作家のなりそこないと評論家が言われるのは作家性だけ自走してるから。 - モノーキー

    追記、当ブログ恒例、ここより優れたエントリ紹介。 NaokiTakahashiの日記 - 作家性よりも作品性だと思う。 [ [■ Takahashi's Web ■] ] 自分のヤツは批評家を論じるために作家性を持ち出したから、ああなったので批評そのものに於ける作品論なら作品性の方が適切かも。 批評家を説明するのに作家性を持ち出すと端的で判りやすかったので。 批評は作品性というより、作家性のカタマリなんで、そんな苦しいオレの言い訳。 http://d.hatena.ne.jp/rulia046/20060918/p1 [single F - 試作実験用。暫定版。-] >批評家と批評に必要なのは「批評性」。批評性だけでは売れなかったりするから「作家性」を付加したり(そも、批評っつーか評論はそれはそれで作品でもあるので、作家性や作品性を分離不能だけど)もしたりも。 あれかもしれ

    laiso
    laiso 2006/09/16
  • 妙に仕事する気が沸いてきた。 - モノーキー

    laiso
    laiso 2006/06/11
  • ヒット作にはオタクへの皮肉がこめられているかもしれない。 - モノーキー

    流行の秘訣はツンデレにあり。 わかったぞ! ハルヒとひぐらしの共通点が! 作品そのものがツンデレなんだ。 ハルヒは美少女という要素でオタクにサービス(デレ)しつつ。 世界の謎や難解な設定(ツン)でお客を突き放している。 ひぐらしも日常のヌルイシーンでオタクを迎合(デレ)しつつ 世界の謎や美少女が残虐な行為をするという(ツン)で客を突き放している。 いわゆるオタクを肯定する要素『萌え(デレ)』だけでは注目されない、かならず客を突き放す『ツン』要素がなければデレが引き立たない。 つまり、がちがちのハードなSFだろうが新格だろうが、そこにオタクが好きそうな要素『萌え(デレ)』要素が加わればヒットの要因になりうるということか! 一つの作品に相反する二つの要素をムリヤリ融合させようとして出来たものこそが売れる作品の秘訣なのだ! たとえばリアルと非リアルとか、お約束なキャラ設定な

    laiso
    laiso 2006/05/18
  • いいエロゲの考察はエロゲのテキストが引用されてることが多い件について。 - モノーキー

    エロゲの考察屋で面白い人の多くが批評してるエロゲの文を引用してる気がする。 どうしてなんだろう。それとも俺の気のせいかな? しかし、そこに「感動」の理由はない。ただ、システムの妙が分かるだけだに通じる何かがあるのか? 説明できないような部分があり、それを摂取しまた交換するのが現実の人間である。現実の会話とは時に突拍子もない語が出てきてしかもそれが論理的に回収されぬまま続くものであったりする。みたいなことなのか? 文学というか、まあ芸術文学の基姿勢は、法則定立性とは正反対の方向を向いている。つまり、法則からは目を背けて、ある一人の人間の個性にフォーカスをあてた、個性記述性が根にある。 だから、バラバラにして物語を「友情」とか「逆転」とか「葛藤(ストラグル)」とか「恋愛」みたいに、いろんな面白い要素を無感動に一刀両断で一括りしてつまらないものしちゃうのと通じるものがあるのかもし

    laiso
    laiso 2006/04/09
  • 物語が終わるとき。 - モノーキー

    物語はコミュニケーションを断絶することで始まる。 そして、コミュニケーションが為されることで終わるのだ。 コミュニケーションの成立には三つのパターンがある。 まず、登場人物同士のコミュニケーションの成立。 恋愛モノなんかが代表的だけど、お互いの想いが通じ合うってヤツね。 他にも仲間との誤解で喧嘩やトラブルになっていろいろあって仲直りするってのもこのパターン。 あと、作り手と読み手のコミュニケーションの成立ってのもある。 これはメッセージ性の強い物語の作者がこめたメッセージを読み手が受け取るってやつね。 寓話とかアレゴリーってのはこのパターンに入りそう。 もう一つは、登場人物と主人公のコミュニケーションの成立。 これは、三人称で読み手が神様みたいな視点でキャラクターたちを覗けるモノのことなんだけど。 この場合、読み手は主人公が知らない他の人たちの動きを知っているというア

    laiso
    laiso 2006/03/17
  • 物語の自由。伏線の回収は過去の事実の意味づけ。 - モノーキー

    悪い子の文章読内の『文章読 7.実践篇−創作文を書く(その1)』 [KURUKURU'S CATALOG] E・A・ポーは、文学文の生産はクリエイションでなく、「コンポジション」だと言っています。ほんとは「コンビネーション」と言うべきだったのかもしれません。俳句等の「定型詩」へのいいがかりに、「五・七・五の組合せは有限だから、いずれいきづまりが来る」というものがあります。そして、それに対する反論に「いや、その組合せの数は天文学的だから、大丈夫なんだ」というのもあります。いったい何が「大丈夫」なのでしょう。あなたはその「天文学的な多様性」の中に、自分の居場所を見つけた気になっているのかも知れませんが(もちろんあなたの俳句もその組合せのひとつに違いないのですが)、そこに居ることのできるのは「ただの文字列」であっても、ちっとも俳句でないのです。それが「俳句」かどうかは、おもしろいかどうか

    laiso
    laiso 2006/03/01
  • 1