タグ

ブックマーク / futsuunikki.seesaa.net (2)

  • メタ・形而上学?: 普通日記は、移転しました。

    形而上学とはつまり、人間の知覚に関する領域についてのあれこれで、 それはいつでも、 世の全てを覆う(表現する)事を夢見ているのに、 当然のように、夢見ている人間の脳内という限界を出ない。 今、生きている、人間の脳、という限界。 人の形而上学は、生まれてきてから、死ぬまでの、思考と経験の積み重ねで、 その「生まれてから死ぬまでの人間が紡いだあれこれ」は、 螺旋階段を描きながら、「形而上学史」を作るけれど、 人は生きているときしか形而上学ができないので、 その対象はいつの時代も、「人間が生まれてから死ぬまで」に限られる。 今、生きている、その期間、という限界。 人間の認知であったり、 人間の寿命であったり、 そういうものの範囲内で、形而上学をすることは確かに 少しでも「現実的」というイメージを持たせるためには重要で、 もしそれで完結できるのなら、 そんな素晴らしいことはないのだった。 ・・形而

    laiso
    laiso 2006/07/09
  • メタ疲れ。: 普通日記は、移転しました。

    記憶力がないので、事象をそれ自体として個々に認識しておくことが出来ない、長い間は。 数字とか。 人の名前とか。 ある出来事とか。 感情とか。 いつも、事象に遭遇したとき、自分のメタ倉庫にまずは逃げる。 どの論理群に定着させるか。どの感情群に定着させるか。選ばないと。事象を。 じゃないと、忘れてしまうから。 編集しないと。物語にしないと。論理に還元しないと。 ということを無意識にやっていると、 蓄積するのが、 「メタ疲れ」。 「評論し疲れ」。 「編集し疲れ」。 「当事者であることから逃げ疲れ」。 メタ疲れというのは結構人からエネルギーを奪う。 私が常に低テンションなのはこのせいだといいたいくらいに。 今の若者もそうじゃないかなあと思ったりする。 将来をざっと想像してしまって。世の中を分かった気になってしまって。 面白くない、とメタ疲れ。 当事者にならないとエネルギーなど生まれてこないのだ、そ

    laiso
    laiso 2006/07/09
  • 1