shibuyaとmeguroの間に巨大な球体が出現。一時騒然となる。 通常は10m立方までしかオブジェクトを作れない仕様のSLだけれど、これは100m以上。huge primというやつか。 まあただのトラブルだなのだけれど、世紀末的な光景や、そこに立ち会う現場感は面白かった。 観察するために視界を最大の512mまで上げてみたら二つ先のSIMまで見渡せて、画ヅラとしてだいぶ街並みが整ってきていることに気付く。日常的な街並みがあってこその非日常的な侵略感が強い。
shibuyaとmeguroの間に巨大な球体が出現。一時騒然となる。 通常は10m立方までしかオブジェクトを作れない仕様のSLだけれど、これは100m以上。huge primというやつか。 まあただのトラブルだなのだけれど、世紀末的な光景や、そこに立ち会う現場感は面白かった。 観察するために視界を最大の512mまで上げてみたら二つ先のSIMまで見渡せて、画ヅラとしてだいぶ街並みが整ってきていることに気付く。日常的な街並みがあってこその非日常的な侵略感が強い。
馴れない人と会話するときはあんまりゲームの話したくないなって思ってて自分からは振らないようにしてるけど。 それでも話題に上ったりするときに、 「あー、私は全然そういうのダメです。ぜったい無理です」 というような拒絶を表される場合がわりと多いように感じてる。 そのへん別に不思議でも無いんだけど。でもそれが、なんか引っかかるような節もある。 ダメとか、無理って、なんだろな。うーん。 つまり、不可能の表明だ。 たとえば映画だったら「あんまり観ません」とか、マンガなら「読まない」、小説なら「読めません」とか…。あー、小説くらいになれば「読めない」という不可能の立場もあるのか。けどまあ、映画やコミックは嗜好として享受する・しないという選択判断の表明かな。あまり不可能という意識は無さそうな感じがする。 なんとなくこのごろ世の中的には、ゲームっていう物も映画のように広くエンターテインメントとして捉えられ
ゲームにおいて「飽きる」という言葉は死よりも強い印象さえあるように思う。 まあゲームの死=リトライ継続であるという構造的な意識から、相対的にプレイヤー主導で決定的な終わりを迎えるものが飽きとなるのかな。そのへんちょうど人間の人生における死と飽きとは逆の意味になっているのは一回性のものかそうでないかということだろうか。そしたら一回性ではなく強い輪廻主義を持つ人なら死を恐れず飽きこそを恐れるのか。いや…、逆にそれは悟りか。迷いの対極。まさに解脱。グッドエンドだ。仏教は迷いを減らす手続きゲームとして悟りというゴール求める? でもそれを達成したら、その後はどうなんだろう。そこは一つのステージに過ぎなくて、さらなる悟りのために終わり無く上昇して継続することが保証されているのかな。悟りプレイヤーのためのネクストステージ。おそらくそれは非悟りプレイヤーにとっては見えないから、結果として果てが無いとしても
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