だいぶ前に、ふとした拍子に「好きな作品なら理由が言えるはずだ」と言ったら、「逆でしょ。嫌いなものには理由があるけど好きなものには理由がない」と返されて考え方の違いに驚いたことがある。 その時はそれも筋が通っていると感じたからそれ以上は踏み込まなかったが、思い返すにまだ腑に落ちないものがある。 それは、結局突き詰めて考えると、自分が「好きなものには理由がある」と言う場合、加点法を念頭に置いているからだ。 加点法と減点法 一般的に加点法と減点法ということを言うとき、加点法の方が分別があるとか生産的だとか言う。 そして加点法で言うならば、「好きな理由」を上げていくことが評価のスタンダードでなければいけない。 となれば、逆に「嫌いなことに理由がある」という考え方は、減点法であり、非生産的な考え方であると言えるはずだ。 しかし一方で、「好きなものはなんとなく好きで、特に嫌いな理由があるときだけ嫌い」
音楽スタッフ、作画スタッフ、声優、それらをまとめ上げる監督の圧倒的なエネルギーと原作理解によるものやろ。 ぼっち達がワーキャー言ってるシーンだって、あれを素人の某声優や手抜き作画でやったら見てられなかったよ。 脚本は原作をアニメの台本に書き換えつつ、無茶ぶりになってるところは丸投げしてだけでしょ? あの雰囲気を作り出していたのはアニメーターの労力によるものが大きいし、評価の高さを支えていた屋台骨は音楽スタッフの力量と拘りじゃん。 なんで「ぼざろの脚本家マジスゲーよな」みたいになっとんのや? 俺的には虎に翼で完全に化けの皮が剥がれた印象だな。 アニメ的な奔放なノリを持ち込めないようなフィールドになると途端に打つ手がなくなる。 というかさ、ぼざろの時もだけど取り敢えずキャラに叫ばせて間を持たせようとするよね。 それが成立してたのは他のスタッフの怪演のおかげやぞ? 朝ドラのスタッフで同じことやっ
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