東の旧都 プロテスタントと学生の街を歩く◇◇◇◇ハンガリー第二の都市でも人口は20万人強。19世紀半の戦時下では僅かな間ながら首都として機能したデブレツェン。行き交うのは国内最古の高等教育機関として名高いデブレツェン大学の学生達。彼らにとっては住みやすい街。個人的に欧州の首都で最も治安が悪いと感じたのがブカレスト。ルーマニア国境まで30キロに位置するものの清潔で落ち着きがあり、
東の旧都 プロテスタントと学生の街を歩く◇◇◇◇ハンガリー第二の都市でも人口は20万人強。19世紀半の戦時下では僅かな間ながら首都として機能したデブレツェン。行き交うのは国内最古の高等教育機関として名高いデブレツェン大学の学生達。彼らにとっては住みやすい街。個人的に欧州の首都で最も治安が悪いと感じたのがブカレスト。ルーマニア国境まで30キロに位置するものの清潔で落ち着きがあり、
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PICKUP NEW 2024.10.12 「マス救」オンライン取材、元同業者へのインタビュー、そして長崎スタジアムシティ 9月30日(月)~10月6日(日)
11月1日、福岡のレベルファイブスタジアムにおいて、凱歌があがった。松本山雅FCがJ1初昇格を決めたのだ。J2昇格からわずかに3シーズン。老練な指揮官が率い、熱狂的なサポーターに支えられての快進撃の背景にあったものは一体なんだったのか。今回の『J論』では、さまざまな視点からこの初昇格を振り返る。最後に登壇するのは、旅に生きる論者・宇都宮徹壱。早くから松本を追い掛けてきたこの男は、遠きにありて松本の未来を思う。 <写真>2009年、地元アルウィンで念願のJFL昇格決めた (C)宇都宮 徹壱 ▼バルセロナにて 松本山雅FCのJ1昇格の報を知ったのはTwitter上でのことであった。その時、私はスペインのバルセロナにいた。 その日はカンプ・ノウでバルサ対セルタを観戦することになっていたが、J2の動向も気になって仕方がなかったのである。結局バルサは、ホームでセルタに73年ぶりに敗れて首位陥落。貴重
福島の「軍師」こと竹鼻GM。湘南でクラブ経営のノウハウを学び、鳥取を経て2年前から現職 【宇都宮徹壱】 「最近ですか? 県内の農家や農園を回ることが多くなりましたね」──。久々に再会した、福島ユナイテッドFCの竹鼻快(たけはな・かい)GMは、そう言って笑った。サッカークラブのGMが、なぜ農家や農園をはしごしているのか。当人に説明してもらおう。 「ご存じのとおり、福島は米や野菜や果物の産地として有名ですが、原発事故後の風評被害に苦しんでいます。それを払しょくするには、パンフレットを作るよりも、アウェーの会場で直販したほうが絶対アピールになるし、お客さんにも喜ばれる。そういうお話をさせていただいて、今ではあちこちの農家の方々から農作物を買い取らせていただいています。逆に農家は、今はどこも後継者不足です。だからウチの選手に、週に何回か農作業のアルバイトさせることも考えています。農家にとっては労働
率直に言えば、試合そのものは「凡戦」としか言いようがなかった。福島県いわき市で9月21日に開催された、J3リーグ第26節、福島ユナイテッドFC対グルージャ盛岡の試合は、後半8分の盛岡のセットプレーから高瀬証が押し込み、結局これが決勝点。福島は後半34分に田村翔太、そして44分に時崎塁と相次いでFWの選手を投入するも、追いつくことができずに0−1で終了のホイッスルを聞くこととなった。 「復興支援スペシャルマッチ」と銘打たれた、共に東北の被災地をホームタウンとするダービーマッチ。当該サポーターにとっても、われわれメディアの人間にとっても、非常に期するものが多かったはずだ。しかし、「ハードワークと球際をしっかりやりながらチャンスを生かす」(鳴尾直軌監督)という明確なテーマを持った盛岡に対して、ホームの福島はほとんどの場面で受け身に回ってしまい、シュートもわずかに4本にとどまってしまった(盛岡は1
松田直樹から引き継いだ3番を背負い、松本の地で走り続ける田中隼磨。盟友は、彼の新たな地での活躍をどう見ているのだろうか。 「緑」は壮観な山々を、「白」はアルプスを覆う雪や混じりけのない自然をイメージさせる。重厚感ある松本山雅のユニホームに、背番号3は実によく映える。 「山雅の3番」は2011年8月、急性心筋梗塞で他界した元日本代表、松田直樹がつけていたことで知られる。クラブにとって特別な番号であることは言うまでもない。欠番にこそしなかったが、一昨年、昨年とずっと「空き」になっていた。 2014年3月2日、J2開幕戦。 乗り込んだアウェー、味の素スタジアムのピッチに「山雅の3番」がいた。センターバックではなく、右ウイングバックに。 ポジションの違いもさることながら、威圧するオーラや圧倒的な存在感という意味でも松田とは異なる。だが、不思議と違和感はなかった。背番号3が思いのほかしっくり来ていた
井口資仁が高校卒業でプロにならず大学進学を決めた二つの理由 小久保裕紀の背中を追いかけて日本代表になりたかった 井口資仁 2024/4/16 12:50
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