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  • 『逃げ上手の若君』もう一人の逃げ上手の若君・護良親王の半生とは? | 歴史人

    『逃げ上手の若君』もう一人の逃げ上手の若君・護良親王の半生とは? 『逃げ上手の若君』外伝:北条時行をめぐる人々とその時代 TVアニメ『逃げ上手の若君』第6話では、鎌倉幕府崩壊後の後処理に追われながらも新体制に対する思惑が渦巻く朝廷側の様子が描かれた。そこで登場したのが、後醍醐天皇の息子であり鎌倉幕府打倒の功労者の1人である護良(もりよし)親王だった。史実にも存在するこの「若君」もまた、北条時行に負けず劣らずの「逃げ上手」な半生を送っている。 ■朝廷側にも存在した「逃げ上手の若君」 鎌倉幕府の「逃げ上手の若君」が北条時行なら、宮方にも逃げ上手で建武政権の樹立に貢献した「若君」がいた。大塔宮護良親王である。 大塔宮は延慶元年(1308)、後醍醐天皇の皇子として誕生した。母親は民部卿三位。 幼くして仏門に入った宮は梨門跡とも呼ばれた梶井門跡に入室した。当時の梶井門跡は法勝寺(京都市左京区・現在

  • 全身に99ヵ所の傷を負っても戦い続けた猛将・藤堂高虎、「7人の主君を渡り歩いた戦国の風見鶏」のイメージとはほど遠い実像【イメチェン!シン・戦国武将像】 | 歴史人

    戦国史をお好きな方であれば「藤堂高虎(とうどうたかとら)」と聞くと、主君を次々に変えた武将というイメージをもっている人も多いだろう。しかし、それらの主君たちに対して、高虎は全力で尽くしていたという話が残っている。 現代を生きる人々は次々に職場(会社)を変えるのが当たり前── 転職は当たり前の時代だが、戦国時代にもそうした武将は数多くいた。そのうちの代表的な存在が藤堂高虎であろう。高虎は、何度も主君を変えたことで日和見(ひよりみ)武将のように言われてきたが、近年は別の見方をされるようになってきた、いわばイメージチェンジが図られた典型的な武将でもある。高虎は、14歳で浅井長政(あざいながまさ)に仕え姉川合戦にも参戦したのが最初で、以後は阿閉貞征(あつじさだゆき)・磯野員昌(いそのかずまさ)・織田信澄(おだのぶずみ)・豊臣秀長(とよとみひでなが)、さらに豊臣秀吉を経て最後は徳川家康に仕えた。この

  • 歴史人 | 歴史の魅力を全力で伝えるエンタメマガジン

    日「光る君へ」クランクアップを迎えた一条天皇を演じる塩野瑛久さんインタビュー!もがき苦しんだ撮影期間のふりかえりや役作りとは?

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  • 「光源氏」のモデルの一人とされる藤原伊周 | 歴史人

    4月7日(日)放送の『光る君へ』第14回「星落ちてなお」では、権力者・藤原兼家(ふじわらのかねいえ/段田安則)の最期が描かれた。一方、まひろ(のちの紫式部/むらさきしきぶ/吉高由里子)と藤原道長(みちなが/柄佑)は、自らの進む道の困難に直面し、思い悩んでいた。 ■新たな摂政・藤原道隆の独裁政治が始まる 京都府京都市にある一条院跡。藤原伊周が妾とした藤原為光の三女が住まいとしていた場所で、のちに藤原詮子に引き渡されている。999(長保元)年に内裏が焼亡した際、一条天皇はこの屋敷を里内裏としている(『日紀略』)。 日に日に衰えゆく摂政・藤原兼家は職を辞し、出家を決意した。後継者には長男の藤原道隆(みちたか/井浦新)を指名。父のために数々の汚れ仕事を請け負ってきた三男の藤原道兼(みちかね/玉置玲央)は納得がいかず、父を罵倒して、その場から立ち去った。 それからまもなく、兼家は死去。摂政を継い

    「光源氏」のモデルの一人とされる藤原伊周 | 歴史人
  • 不祥事発生のお詫びと今後の対応について | 歴史人

    読者各位 株式会社 ABC アーク代表取締役社長 園部    充 歴史人編集長 後藤隆之 不祥事発生のお詫びと今後の対応について 平素は格別のお引き立てを賜り、厚く御礼申し上げます。 この度、弊社が発行しております「月刊歴史人」におきまして、掲載された図版が、書籍「一度読んだら絶対に忘れない日史の教科書」(山﨑圭一著、 SB クリエイティブ株式会社刊、2019 年 9 月 7 日初版)に掲載された図版と酷似しているとのご指摘を頂きました。 弊社内で確認・調査をおこないました結果、「月刊歴史人」におきまして「一度読んだら絶対に忘れない日史の教科書」掲載の図版を合わせて20点、計 3 号に渡り、違法に使用していることが判明いたしました。今般の事態につきまして、著者である山﨑圭一先生およびSB クリエイティブ株式会社様に対して心よりお詫びを申し上げるとともに、「歴史人」の読者の皆様にご迷惑を

    不祥事発生のお詫びと今後の対応について | 歴史人
  • 日本の城史にも例を見ない700年間におよぶ歴史をもつ名城「岩村城」【岐阜県恵那市】 | 歴史人

    源頼朝の重臣「加藤景廉(かとうかげかど)」が創築した岐阜県恵那市に残る岩村城。鎌倉・室町の300年、戦国の100年、さらに江戸の300年にわたり存続し、日の城史にも例を見ない700年の歴史をもつ名城の歴史をここでは紹介する。

    日本の城史にも例を見ない700年間におよぶ歴史をもつ名城「岩村城」【岐阜県恵那市】 | 歴史人
  • 「13人の合議制」にまつわる5つの謎 | 歴史人

    「鎌倉幕府勢揃い」 頼朝が御家人をあつめ、平家討伐を宣言する様子。北条義時など、有力御家人たちが集まった希少な絵。都立中央図書館蔵 Q1 源頼家は当に愚かな人物だったのか? 頼家が愚君と伝わるのは執権・北条氏が理由⁉ 鎌倉幕府の準公式歴史書である『吾鏡』は、源頼家は側近の専横(せんおう)を放置し、頼朝以来の老臣を軽視したため、御家人たちの反発を買い、見限られたと記す。しかし『吾鏡』は、北条氏が鎌倉幕府の実権を握った時代に成立した歴史書であり、北条氏と対立した頼家をことさらに悪く描いた可能性がある。 『吾鏡』正治2年(1200)5月28日条に、土地の境界争いに際し、頼家が各々の言い分をまともに聞こうとせず、絵図の中央に墨を一直線に引き、「土地が広いか狭いかは、お前たちの運次第だ」と言い放ったという有名な逸話が載っている。しかし、この話はいかにも作り話めいており、信用しがたい。 また、

    「13人の合議制」にまつわる5つの謎 | 歴史人
  • 頼家暗殺・一幡謀殺の内情【前編】 | 歴史人

    頼家と安達景盛との間で、景盛の妾をめぐる諍いがあり、梶原景高からの景盛謀反との讒言により討伐すらしようとした。政子に諌められたことから頼家の逆恨みをかったという。国立国会図書館蔵 正治元年(1199)4月、鎌倉殿を継承して間もない頼家のもとで13人合議制がしかれた。この体制はこれまで鎌倉殿頼家の権限を制限するものと評価されていたが、近年の研究ではむしろ訴訟の取り次ぎを13人に整理することで、鎌倉殿の親裁(しんさい)を補佐するねらいがあったと評価されている。頼家政権を象徴する13人合議制の構成員の多くは当時の鎌倉に出仕する数少ない諸大夫(しょたいふ)身分(四位・五位の中級貴族)の者であった。すなわち彼らこそ幕府の意思決定に関与し得る宿老に他ならなかった。 その年の10月、13人の宿老のひとりである侍所別当・梶原景時を糾弾する66名の御家人の連判状が頼家に提出された。九条兼実(くじょうかねざね

  • 源氏と北条氏の権力抗争に巻き込まれた「仁田忠常の謀反」 | 歴史人

    8月21日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第32回「災いの種」では、比企能員(ひきよしかず/佐藤二朗)を滅ぼした北条氏が中心となり、新たな体制作りが進められる。その影で、宿老・北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)が見せる非情さに息子の北条泰時(ほうじょうやすとき/坂口健太郎)は激しく反発。数々の暗殺に手を汚してきた善児(ぜんじ/梶原善)も、苦悩の色を隠せなかった。 ■鎌倉政権において北条氏主導の新たな体制が始まる 静岡県三島市にある三嶋大社。源頼朝が源氏再興を祈願した社として知られる。仁田忠常のが厚く信仰しており、忠常が病に倒れた際には自らの寿命に代えてでも、と夫の回復を祈願した。すると、忠常は回復。満願成就したからか、は半年後に三嶋大社への参詣途中に船の事故に遭い溺死したと伝わる。 奇跡的に回復を遂げた源頼家(みなもとのよりいえ/金子大地)を前に、北条義時ら、北条一族は対策に追われる

    源氏と北条氏の権力抗争に巻き込まれた「仁田忠常の謀反」 | 歴史人
  • 「頼家派最後の砦」が誅殺された比企能員の乱【後編】 | 歴史人

    北条時政 時政が大江広元に能員討伐を相談すると、広元は「よく考えて行動してください」と返答。これを同意を得たと解釈した時政は、能員を誘い出して殺害。比企一族は一幡邸に籠り、館に火をつけ自害。一幡も共に焼死した。国立国会図書館蔵 源頼朝の死後、頼家がその後継となるが、建仁3年(1203)8月7日、病により重体となる。まずは『吾鏡』により、比企の変の経過を見ていこう。 同月27日、頼家の容態は悪化する一方であったので、その相続の取り決めがあった。それは「関西の38カ国の地頭職(じとうしき)は頼家の弟・千幡(せんまん)に譲る。関東28カ国の地頭職と総守護職は、長男の一幡(いちまん)に割り当てる」というものだった。 これに憤慨したのが、一幡の祖父・比企能員だった。全てが一幡に与えられるべきものを、千幡(後の源実朝)に譲渡するのはおかしいと憤ったのだ。この時、能員は千幡と北条氏を討つ決意を固めたと

  • 「頼家派最後の砦」が誅殺された比企能員の乱【前編】 | 歴史人

    比企能員 比企尼は頼朝の乳母で、頼朝が一番苦しい時代を20年も支え続けた。頼朝はその恩に報い、比企尼の養子である能員を取り立てる。能員も期待に応え功績を挙げ、建久元年には頼朝に10人の成功推挙に選ばれる。 国立国会図書館蔵 比企能員(ひきよしかず)は武蔵国(むさしのくに)比企郡の豪族である。彼の叔母は比企尼(ひきのあま)。源頼朝の乳母として頼朝が伊豆に流罪となってから、何十年も仕送りを続け、支援した女性である。比企能員のも頼朝の嫡子・頼家の乳母となっていることから、頼朝の比企氏への感謝の程が分かる。 比企氏と源氏との繋がりは能員の娘・若狭局(わかさのつぼね)が成長した頼家の妾(めかけ)となり、一幡を産み更に強固となる。 一幡が頼家の後を継ぎ、3代将軍にでもなれば、比企氏の権勢は更に増すが、それは北条氏にとっては望ましくない展開だった。 ちなみに能員は、戦への出陣も多く、元暦元年(1184

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