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ブックマーク / nakaii.hatenablog.com (2)

  • 中島義道の「変な感じ」 - 翻訳論その他

    死ぬのがこわい、できれば死にたくないという人も、では永遠に死なないのがいいのかときかれれば即座に、それもごめんだと答えるのではないか。日々の暮らしの中で不意に襲ってくるタイプの死の恐怖、それについて語られたものをみると、「永遠に」だとか「無限の時にわたって」だとか、そういう時間的な観念もまた、激しい恐怖の一因をなしている。子供のころ読んだ水木しげるの漫画(だったと思うが違うかもしれない)に、何かの理由で死ねなくなった人間が四肢をばらばらに切断されて、でも死ねないので、頭は頭、腕は腕、脚は脚、それぞれの部位が、それぞれのスタイルで、永遠に「痛いよう、痛いよう」と嘆き続けるというのがあって、いやな気分になった。ほかにも不死の不幸について語る小説、随筆など、よくある。しかし、だから死ぬのは幸せなのだともならないのだから、難儀である。 死ねないのは不幸だ、ゆえに死ぬのは幸福だというのは理屈だが、死

    中島義道の「変な感じ」 - 翻訳論その他
  • 死の恐怖をめぐって――中島義道、大江健三郎、森岡正博を中心に - 翻訳論その他

    ホリエモンが収監される前、あるインタビューで、こんなことを語っていた。 ボクは6歳の頃から、死について考えていました。いつか死ぬ、明日かもしれない。そう考えると怖い。でも気付いたんです。考えるから怖い、考えなければ怖くないと。しかし何かの拍子にふと心の隙間に入り込む。だから自分を忙しくしてきた。 (アエラ2011年6月6日号) 堀江貴文を「6歳の頃から」捕らえて放さないこの恐怖は、哲学者の中島義道を「六歳のころから」捕らえて放さない恐怖と、たぶん同じだろう。 私は六歳のころから、心のうちでたえず「死ぬのが怖い!」と叫んでいた。何が怖かったのか。それは、けっして父や母と別れるから怖いという感情ではなかった。幼い私が震えていたのは、私が完全に「無」になるということ。それは何なのかわからないながらに、ほんとうに冷や汗が出るほど怖かったのである。 (中略) 私が何億年のあいだ「無」であり続けるとい

    死の恐怖をめぐって――中島義道、大江健三郎、森岡正博を中心に - 翻訳論その他
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