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外交と資料に関するlotus3000のブックマーク (2)

  • 美济礁/ミスチーフ礁/Mischief Reefに関する若干の情報 - 誰かの妄想・はてな版

    ミスチーフ礁は南沙諸島の一部で、現在は中国が実効支配している環礁です。 位置は北緯9度55分、東経115度32分になります。 1930年代に日が南沙諸島(当時の名称は新南群島)を占領して植民地台湾に所属する島嶼としていった際に、新南群島の一部はフィリピン領ではないかとの指摘がありました。 新聞記事文庫 外交(147-198) 大阪朝日新聞 1939.4.18(昭和14) - 新南群島の管轄決定きょう公告 (略) なおフィリッピン諸島のうちに属するとの所論も見うけられたがこれについては一八九八年の米西講和条約第三条をみれば比島領域中島嶼に最も近接せる部分は北緯七度四十分、東経百十六度より北緯十度、東経百八十度*1の一線であるゆえこの度のわが方の範囲とは牴触しない (略) 米西戦争の講和条約であるパリ条約(1898年)でフィリピンの範囲が指定されていることを根拠として、日は新南群島(南沙

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  • 南沙諸島/新南群島/スプラトリー諸島の所属に関する件 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    現在、南沙諸島と呼ばれている島嶼ですが、以前は新南群島と呼ばれていたことがありました。「新南群島」の名称は1921年に農学博士・恒藤規隆が命名したとされています*1。 1933年7月、群島の一部9島に対してフランス(仏領インドシナ関連)が領有を宣言し、これに対して、中国中華民国)と日(大日帝国)が抗議しています。特に日による抗議はすさまじく、新聞ではフランス側の主張を小ばかにしたような論調が掲載され、新聞社自らが係争中の島嶼に探検隊を派遣し示威行動を行い、それを陸海軍大臣、拓務大臣が賞賛すると言った有様でした*2。これに対してフランスは沈黙し、世論を煽ることも無かったため、領土問題の熱狂は1933年8月いっぱいでほぼ収束し忘れ去られます。 再び新南群島が世間の話題に上ってくるのは1939年4月で、きっかけは台湾総督府による新南群島の台湾への編入宣言(台湾総督府令は1939年3月30

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