ロンドン五輪の3位決定戦で韓国に敗れ、膝をつく権田。しかし現在の彼は、過去のリベンジではなく、未来の優勝へのモチベーションに突き動かされている。 「チャムシル」という響きは、いつでも特別な思いを沸き立たせる。1988年のソウル五輪のメイン会場となったこのスタジアムで、日本サッカーはふたつの転換期を迎えたからだ。 ひとつ目は1992年5月のU-19アジアユース選手権1次予選だ。西野朗監督と山本昌邦コーチに率いられ、高校生だったGK川口能活がゴールマウスに立つチームは、韓国を1対0で退けたのである。 当時の日本サッカー界には、韓国への苦手意識が渦巻いていた。'91年7月の日韓定期戦が0対1の敗北に終わると、韓国のキャプテンだったチェ・スンホは「100年経っても日本は韓国に勝てない」と話した。翌'92年1月のバルセロナ五輪最終予選でも、終盤まで粘ったものの0対1で屈した。スコアこそクロスゲームに