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シモーヌ・ヴェイユとhogeに関するluccioraのブックマーク (2)

  • 人生のほんとう/池田晶子著 備忘録2 - lucciora’s diary 蛍日記

    ひきつづき・・・ 『人生のほんとう』/池田晶子より 第5章「魂」より p144 私は輪廻転生の思想というのは 人間が自己の何であるかを考えていった場合に 必ず現れてくる根強い一つの型だと思っています。 自分の何であるか、この魂はなぜこうなのかということ、 その歴史を垂直方向に求めてゆくと 必ずこの表象が現れてくる。 表象というのは、必ずしも空想ではありません。 なぜ自分は自分なのかということを水平方向に、 親から生まれた、さらにそれを遡って家系とか祖先とか、 この世の時間軸を遡る方向ではなく、 今現在においてこの魂の何であるかを問うと、 現在というのはその意味で無時間ですから、 自分をどこまでも垂直に掘ることになる。 そうすると必ず超時間的な次元というものに出てしまう。 突き抜けちゃうんですね。 この自分は何なのかと問うていった場合に、さっき話したように、 あらゆるものが、流転する魂として

    人生のほんとう/池田晶子著 備忘録2 - lucciora’s diary 蛍日記
  • カミュにとってのヴェイユ - lucciora’s diary 蛍日記

    孤独感とは何処からくるのだろう。 ネットをブラブラしていたら、カミュの言葉に出会った。 『意志もまた、一つの孤独である。』 カミュ カミュはよく知らない。中学生のころに、異邦人を読んだだけだ。 だが、シジフォスの神話についてのカミュの文章は読んでみたいと思った。 この神話自体は以前から知っているけれど、カミュはあの時代、あの年齢で何を考えたのか。そして46歳の時に事故で亡くなってしまったのだけれど。もっと長く生きていれば、作家として、様々な展開があったのではないだろうか。 シモーヌ・ヴェイユを発見し、そして彼女のを相次いでガリマール社から出版したのはカミュだったことを考えると、カミュという人も、ヴェイユの著作との出会いを通して、いづれ信仰に出会ったならば、全く違う世界観に辿り着いたかもしれない。 カミュは信仰を持たなかったが、人の生の不条理を見つめる中で、無意味を敢然と受け入れる姿勢を示

    カミュにとってのヴェイユ - lucciora’s diary 蛍日記
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