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ケータイ小説に関するlylycoのブックマーク (2)

  • 「あたし彼女」の可能性と限界|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    はたして、これは未来に残っていくだろうか? 話題の「あたし彼女」を読んで考えた。もちろん、未来のことは分からない。だからそれは、「ぼくはこれを未来に残したいか?」という自問の意味合いが強い。或いは、これまでに見聞きしてきた「古き良きもの」の、漠とした記憶が導く予断か。音楽でも映画でも文芸でも何でも、「作品」と呼ばれるものを前にしたとき、この問いはぼくにとって重い。それは「娯楽作品だから」とかいうような偏見とは無縁である。浜崎あゆみや倖田來未の流行をぼくはクダラナイものだったとは思わない。ただ、彼女たちの歌はその場限りで消費されていくための作品だったと思っている。 だからぼくは、彼女たちの音楽について、ひとつひとつの作品としてはあまり興味を持てなかったし、一曲一曲を独立した作品として評価はできないな、とも思っていた。要するに、あれは「あゆ」という現象に対する共感であり、「くぅちゃん」という現

  • 「ケータイ小説」は「カップラーメン」である|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    第3回日ケータイ小説大賞『あたし彼女』をどう評価すべきか? ・第3回日ケータイ小説大賞:あたし彼女 一般的な書籍でも版型が変わればブックデザインは変わる。デザインは何もカバーだけにされるものではない。文のフォント選び、級数、行間、字間、余白の取り方などなど、一冊のにも様々なデザイン要素がある。けれども、ここを作家が作り込む例は少ないだろう。有名どころでは京極夏彦がいるくらいか。換言すれば、四六ハードと新書と文庫では相応しい版面のありようは変わるし、書かれた内容によっても変わるのだけれど、作家自身がそれを気にする必要はそれほどなかったともいえる。つまり、変わるとはいっても文体を制限するほどの変化ではなかったのである。 ところが、ディスプレイで読むという行為が状況を変えてしまった。ペーパーメディアに比して著しく解像度の低いディスプレイは、文章表現そのものを相当に制限する。たとえば先に挙

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