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ブックマーク / shogipenclublog.com (13)

  • 森内俊之名人(当時)の「パネルクイズ アタック25」クイズ頂上決戦!

    近代将棋2005年5月号、故・池崎和記さんの「関西つれづれ日記」より。 3月某日 大阪・朝日放送へ。クイズ番組の「パネルクイズ アタック25」に森内名人が出演するので応援にいったのだ。 アタック25は30年の歴史を誇る長寿番組で、この日は1500回目の収録日(放送は3月20日)。記念すべき回ということで、「知性派タレント クイズ頂上決戦!」と銘打った特別編が企画され、漫画家のやくみつる、弁護士の丸山和也、女優の高田万由子に交じって、我が将棋界から森内名人が出ることになったのだ。 森内さんはクイズ番組大好きで、10年前、自ら同番組に応募して出場したことがある。残念ながら、そのときはパネルを1枚しか獲得できなかったけれど、今回はどうだろう。 収録前、廊下で偶然、森内さん(和服姿)を見かけたので声をかけたら、「どうしてここに?」と、ひどくビックリしていた。 報道陣が大勢取材に来ていたが、僕が知っ

    森内俊之名人(当時)の「パネルクイズ アタック25」クイズ頂上決戦!
  • 森信雄六段(当時)と山崎隆之少年

    将棋世界2004年6月号、朝日新聞記者の佐藤圭司さんの「棋士たちの真情 プロであることの誇り 森信雄六段」より。 森信雄六段(52)―。2000年2月に出版された『聖の青春』(大崎善生著)で、故・村山聖九段の師匠として、将棋界以外でもすっかり有名になった。写真撮影の腕前がプロ級であること、詰将棋創作の名手であることも、誌の愛読者はきっとご存じだろう。熱心なファンは「第11期(1980年度)の新人王」「第16期竜王ランキング戦(2003年度)で5組に昇級したばかり」と指摘されるかもしれない。そんなモリノブさんに今年の春、新しい肩書(?)が加わった。初の東大生棋士・片上大輔(22)の師匠という立場だ。第22回朝日オープン将棋選手権で挑戦者決定戦に駆け上がり、順位戦ではC級1組に昇級を決めた、関西のホープ山崎隆之五段(23)の師匠としても、改めて注目されている。 (中略) 編集部からは「片上・

    森信雄六段(当時)と山崎隆之少年
  • 「羽生を起こすのは止めて下さい」

    将棋世界2001年3月号、加藤昌彦さんの「あほんだら、アウトロー 〔いつか会えたなら 羽生善治五冠〕」より。 羽生と初めて会ったのは、2年に一度行われる奨励会東西合同の旅行だった。当時、羽生は13歳の少年で既に二段となっていて、大人顔負けの落ち着いた雰囲気、卓越した存在感が身についていた。将棋も観戦できたが、そのズバ抜けた鋭い感覚に、ただ目を丸くするばかりとなる。そしてこの日は仲間たちと深夜まで、大盛り上がりになっていく。酒を呑む組があり、麻雀を楽しむ組もある。勿論、将棋を指しているメンバーとか様々。それから午後11時を過ぎたころ、部屋の飲み物が全て底がつくと、私はすぐ横でスヤスヤと眠っている羽生少年を、買い出しにやらそうと起こしにかかる。すると関東の仲間が血相を変えて止めた。 「羽生を起こすのは止めて下さい」 「なんでや別にええやろ!」と私。 「ダメです。羽生君は関東奨励会の宝ではなく、

    「羽生を起こすのは止めて下さい」
  • 将棋界では非常に珍しい幽霊の話

    将棋ジャーナル1983年11月号、才谷梅太郎さんの「棋界遊歩道」より。 実に久しぶりの暑い夏も終わり、ようやく涼しい季節がやってきた。それにしても今年の夏は暑かった。いったい37度なんて、ここはほんとうに日なのかいな、てな気分になってしまった。 そこで今回は、さらに涼し気な気分を味わっていただくために、こわーい話をしてみたい。 多芸で広いファン層を持つS八段は、当時まだ20歳の青年だった。四段になって2年目のその年、順位戦でSは順調に勝ち星を重ねていた。 そしてもう一人。Sの友人で、やはりその年、五段昇級を狙うMという四段がいた。この人物こそ、物語の主人公なのである。 明朗快活な性格のSに比べて、Mにはやや暗いところがあった。親友として、また同僚として、Sは以前からこの暗さを気に病んでいたのである。 その後、Sは連勝を続け、最終戦を待たずに五段昇級を決めたが、一方のMは考え込む性格が禍い

    将棋界では非常に珍しい幽霊の話
  • 羽生善治五冠(当時)と畠田理恵さんの出会い

    将棋世界2001年3月号、加藤昌彦さんの「あほんだら、アウトロー 〔いつか会えたなら 羽生善治五冠〕」より。 人はいつも困難から逃げ出したくなるが、羽生という男は正面から向き合い、結果を残そうとする。棋界の頂点へ君臨するにふさわしい棋士だ。そんな羽生を蔭からそっと支えている、理恵夫人の存在も忘れてはならない。 私は羽生に出会いのきっかけを聞いた。その出会いは当時、女優をしていた理恵さんが、雑誌の対談コーナーを持っていて、そこへ最終回のゲストとして羽生が呼ばれたのが最初。 実は当初のゲスト予定は畑正憲氏であった。動物好きの理恵さんは、最終回ゲストに熱望していたらしいが、急に畑正憲氏サイドから中止の申し入れがあり、羽生に白羽の矢が立った訳である。もし、このゲスト交代はなければ、羽生と理恵さんは出会わないのだから、運命とは分からないものだ。そして、その後に理恵さんの舞台を見る機会が縁で、付き合い

    羽生善治五冠(当時)と畠田理恵さんの出会い
  • 先崎学八段(当時)「すべてはふたりが変えたのだ。あの時から将棋界は変わっていったのだった」

    将棋世界2005年6月号、先崎学八段(当時)の第63期名人戦七番勝負〔森内俊之名人-羽生善治四冠〕開幕特別寄稿「将棋界を変えたふたりの名人戦」より。 両者(羽生・森内)が奨励会に入会したのは昭和57年である。いわゆる花の57年組だ。 彼らは、明らかにまわりの人間と違っていた。才能があり、実力があり、きらめきがあったが、もっと以前に、異質なものがあった。 まずもって、顔が見るからに頭が良さそうな感じだった。それも理系であるということが、一目で見てとれる顔だった。 もちろん他の人たちが頭が悪そうだったわけではない。ただ、当時の奨励会は賢そうなというよりは、たくましそうな顔つきをした者が多かった。理系の人間は少なかった。いても勝てなかった。当時の将棋界は、文系、体育会系の天下だった。先輩は無理をいうものであり、将棋は体で覚えて勝つものである。研究なんてしているひ弱な将棋は、鍛えの入った俺達が一蹴

    先崎学八段(当時)「すべてはふたりが変えたのだ。あの時から将棋界は変わっていったのだった」
  • 先崎学八段(当時)「羽生が私にこういうことをしてくれるのは珍しいなと思った」

    将棋世界2005年6月号、先崎学八段(当時)の第63期名人戦七番勝負開幕特別寄稿「将棋界を変えたふたりの名人戦」より。 ひとつの忘れられない光景がある。昨年の3月、A級順位戦の最終局の日の出来事だった。 私はその日、名人だった羽生と一緒にNHKの大盤解説の仕事をしていた。例の『将棋界の一番長い日』というやつである。最終戦を5局同時にひとつの画面で解説するわけだから、解説の棋士にとっては一番目が回る日でもある。しかし、自分でいうのもなんだが、羽生と私のコンビは最強であった。次から次へとスイッチする画面に我々は実によくついていった。口も頭もよく回った。もちろん強い棋士というのは手が早くよく見えるわけだが、手が見えてからそれを口にするまでの時間には個人差がある。我々は口と頭の動きの連動がいいタイプなのだ。 夜中になり、日付が変わった。当然疲れてはいたが、充実した仕事ということもあり、羽生は上機嫌

    先崎学八段(当時)「羽生が私にこういうことをしてくれるのは珍しいなと思った」
  • 渡辺明竜王「棋士の本音が出ていない。当たり障りのない、どこかで読んだ話が載ってることが多い。狭いプロの世界だから本音を言うと損するからでしょうが、ファンはもっと棋士の本当の姿を知りたいはず」

    渡辺明竜王「棋士の本音が出ていない。当たり障りのない、どこかで読んだ話が載ってることが多い。狭いプロの世界だから本音を言うと損するからでしょうが、ファンはもっと棋士の本当の姿を知りたいはず」
  • 谷川将棋と羽生将棋はどこが違うか

    将棋世界1995年11月号、池崎和記さんの「昨日の夢、明日の夢」(谷川浩司王将)より。 棋士は強くなっているか 谷川将棋と羽生将棋はどこが違うか。青野照市は「答えのある局面で満点の手を発見するのが谷川さんの強さ。答えのない局面で巧みに手を作るのが羽生さんの強さ」と言っている。 これを別の言葉で言えば、勝ちの将棋を最もわかりやすく勝つのが谷川将棋、悪くなったときの粘り方がうまいのが羽生将棋、ということになる。 ―羽生将棋をどう見てますか。 中盤戦の当に手が広い局面で最善手を見つけるのがうまいですね。まあ結局、そういうところで当の強さが出てくるわけですけど。序盤はそれほどうまいとは思わない。私が負けた将棋でも序盤はこちらがリードしているケースがありますんでね。 ―「苦しいときは何をやっても悪い。でも羽生はそういうときの戦い方が実にうまい」というのが青野さんの説です。 そうですね。私は局面が

    谷川将棋と羽生将棋はどこが違うか
  • 将棋会館なんでも鑑定団

    近代将棋1988年12月号、武者野勝巳五段(当時)の「プロ棋界最前線」より。 書いていて息が詰まってきたので、少し楽しい話をお届けしよう。 東京の将棋会館、特別対局室にダルマの絵の掛け軸が飾られていたのをご存知だろうか。少し古い近将誌のグラビアをご覧になれば、上座対局者の後方に映っている絵を数枚は発見できるだろう。夏過ぎに掛け軸が変えられて、ああ将棋の対局室になじまなかったんだなあと納得していたら、さにあらず。あれは江戸時代の有名画家・谷文晁による”彩色孔明”の真品で時価千万円の大変な美術品であることが分かったので、倉に蔵まったのである。ダルマだと思っていたおじさんが、尊敬する中国の戦略家・諸葛孔明だと知って二度ビックリ。どうも旧会館落成(1959年)のお祝いに愛棋家から贈られたものらしいのだが、何と地下の倉庫には梅原龍三郎画伯の絵を含め同様の美術品が飾るに飾れず眠っているのだそうだ。あ~

    将棋会館なんでも鑑定団
  • 戦慄の名古屋戦法、悪夢の岐阜戦法

    将棋世界2004年11月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第7回 『名古屋』『岐阜』という名前の戦法がある」より。 燃えた「奇襲オタク魂」 いま私は、東京・永田町の国立国会図書館にいる。最近、ここに通ってはある棋書を閲覧し、せっせと書き写しているのだ。まるで写経である。キーボードに慣れきった右手が痛い。それでも頑張っているのは、『将棋世界』の読者にこの棋書のスゴい中身を伝えたい一心から、というのは半分ウソ。私の体内に宿る奇襲オタク魂がいやでもそうさせるのだ。 その棋書とは日経済新聞社から昭和29年より34年にかけて刊行された『将棋新戦法』全3巻。著者は加藤治郎八段(当時)。もちろんいまは絶版だ。 半生記も前の棋書になぜ私は取り憑かれたのか。話はひと月前にさかのぼる。 勤務先の企画で升田幸三について調べていた私は、升田の唯一の弟子であり、升田将棋を体系的に研究している唯一の棋士である桐谷

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  • 佐藤康光棋聖(当時)「森内さんに聞いてみたらどうですか」

    将棋世界2004年6月号、山岸浩史さんの「盤上のトリビア 第3回 森内の将棋は羽生のチェスで変わった」より。 「日人じゃない」 「あの二人にはついていけません。顔が合えばポーンがどうしてナイトがどうしたとか話し込んでいる。私にはチェスの棋譜などまったく頭に入りませんが」 自身もかなりのチェス好きであるはずの佐藤康光棋聖は、半ば呆れ顔でいう。 誌昨年3月号「棋士たちの真情」で佐藤棋聖が松治人氏の取材に答えて、<羽生さんとはその思考方法が違うような気がします。結論は結局同じになるかもしれませんが、それにたどり着くプロセスがどうも違う。チェスをやってよくわかりました。> と語っているのが非常に気になっていた私は、棋聖に発言の真意を尋ねた。具体的な指し手の話になるのかと思ったら、棋聖が感嘆するのは、羽生善治名人のチェスに対する常人離れした「姿勢」だった。そして、それは森内俊之竜王にも共通して

    佐藤康光棋聖(当時)「森内さんに聞いてみたらどうですか」
  • 「貴方を見ていると勤勉という言葉は罪悪だと思えてくる」

    将棋世界1997年10月号、先崎学六段(当時)の連載エッセイ「先崎学の気楽にいこう」より。 竜王戦で、ついに近藤君が負けた。松、行方と、得意のいい加減な中飛車(これは褒め言葉である)で連破したところまでは良かったが、佐藤康光君には通用しなかった。まわしをガッチリ引かれて押さえ込まれ、途中からは大差だった。近藤君は、最後、かけられるだけの王手をかけて、刀折れ矢尽き、玉砕した。 その数日後、将棋会館へ行くと、近藤君が事務所でニコニコしている。日焼けした顔にピンクのポロシャツなんか着ちゃって、早くも遊び人の雰囲気が漂っている。 「おう近藤君じゃないか、なんだい元気そうじゃないか、俺はてっきり打ちひしがれて憮然としているかと思ったよ」 背中をポーンと叩いていうと、近藤君は、相変わらずの脳天気な口調で喋り出した。 「いやあ先崎さん、序盤では勝てるかなと思ったすけど、気を出されたっす。新潟の柏崎高

    「貴方を見ていると勤勉という言葉は罪悪だと思えてくる」
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