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2010年5月12日のブックマーク (11件)

  • 人が変わるということ - kokokubeta;

    知り合いの美容師と話す。もともと小さな、家族的な暖かいお店で働いていたのだが移ってカリスマ系の大きなお店に入った。技術はすでにあるとはいえ制度上見習いになるらしく、髪を切ることができるのは閉店時間後。朝9時から働いて、終わるのは25時とか。忙しそうだ。「でも○○(私)もそんなもんでしょ?」それはそうなのだが・・・ 閉店時間後に彼のようなアシスタントは知り合いなどを呼んでカットの練習をする。店長などはいないのでゆるい雰囲気といえばそうなのだが、入ってみると、なんというか上を目指す人たち独特のピリッとした、どこか殺伐とした雰囲気がすぐに伝わる。今をときめく都心のカリスマ店なのでみんな派手でおしゃれなのだが、あの真剣な感じと組み合わさると不思議な印象を受ける。「今は仕方なくこういう感じだけどガンガン前に進みますよ。」はっきりとそう言う彼の言葉を聞いて、何となく自分がいまぬるい環境にあるのではない

    人が変わるということ - kokokubeta;
  • プロとアマの違い - kokokubeta;

    という内容のものがやたら繁盛している和菓子屋の中に印刷しておいてあったので拝借してきた。繁盛しているのは年始のせいもあろうが。賞状を印刷するような上等な紙を使用していたのが印象的。 人間的成長を求め続ける⇔現状に甘える 自信と誇り⇔ぐちっぽい 常に明確な目標を指向⇔目標が漠然としている 他人の幸せに役立つ喜び⇔自分が傷つくことは回避する 可能性に挑戦し続ける⇔経験に生きる 思い信じ込むことができる⇔不信が先にある 自己鍛錬を習慣化⇔気まぐれ 時間を有効に習慣化⇔時間の観念がない 成功し続ける⇔失敗をおそれる 自己投資を続ける⇔享楽的資金優先 使命を持つ⇔途中で投げ出す できる方法を考える⇔できないいいわけをする 自分のシナリオを書く⇔他人のシナリオが気になる あけましておめでとうございます。

    プロとアマの違い - kokokubeta;
  • 年始のNHK - kokokubeta;

    深夜に爆笑問題の番組を見る。浅島誠、佐藤勝彦、福岡伸一、野矢茂樹、遠藤秀紀、 斉藤環ってどれだけ豪華なんだ。いくつか論点があった。 無駄が許されなくなってきている。ちなみに長い目で見ると無駄でないという言い方もダメ。無駄は無駄で、それとして置いておけ。(野矢) 全体は部分の集合ではない。(福岡) 脛をかじることが後ろめたいことでなくなったら、ニートの問題は解消していくのではないか(斉藤) 効率化することには死角がある(全体) なんで「昔はよかった」というのか。昔がんばったから今こんないいことがあるんだぞと大人が言わないと子供は報われない(太田) 人間には600万年程度の歴史しかない。植物は3億年(うろ覚え)。学べることがたくさんある(浅島) ちょっと時間が押し気味だったのが惜しい。次は有力ブロガーあたりでやってほしいところ。一流の頭脳の共振をもっと見たい。NHKは「学級委員が無理矢理ふざけ

    年始のNHK - kokokubeta;
    maicou
    maicou 2010/05/12
    >「学級委員が無理矢理ふざけてみました」
  • 世代を見る眼 - kokokubeta;

    自分が若いときに上の世代に受けた仕打ちで、当時「これはひどいなあ」と思ったことがあったとして、自分が当時の「上の世代」になったらどうするか。大体は、「当時はそうも思ったけど、実際その立場になるとわかることもあるし、難しいなあ」というのが良心的な考えかと思う。そのあと、じゃあ実際に下の世代に何をするかというとここで人は二つに分かれて、「だからこの制度は変えない、何ともいえないし」「でも当時嫌だったのだから変えるしかない」になる。これは、どっちがいいのか私には判断できない。個別ケースにもよるだろう。うむ。 私が思うのは、我々が下の世代を見るときに想定している相手というのは、実のところ目の前にいるその下の世代ではなく、当時その世代であった自分ではないかということだ*1。なぜか、われわれはそういう風にしか想像をめぐらせることができない。思うに、下の世代に対して思っている事は、そのまま過去の自分に対

    世代を見る眼 - kokokubeta;
  • さようなら、内臓見せるな型保守主義 - kokokubeta;

    人間の内臓見るとぎょっとする。女性の裸には興奮するのに内臓にはぎょっとする。薄皮一枚隔ててすごい差だと思う。 で思うのだが、内蔵見せるなよというのはいまやひとつの保守主義になってる気がした。で私は保守主義者、と。 いや下世話な話ですけど、「女はおしとやかにしろ」みたいな規範は実は内臓を見せない知恵みたいなものだったと思うわけですよ。女性は怒ると思うのですが。男は力強くあれ、泣くな、みたいなのも同じ。事実から導かれた処世訓じゃなくて、事実(=内臓)は見せるな、っているある種の「粋(いき)」だった思うのですね。そんな粋はもう見る影もなくて、ものめずらしい内臓がいまやさらされまくってしまっていますが。 でここら辺にはひとつのパラダイムシフトがある気がしていて、見えそで見えない「粋」を楽しむ時代はとっくに終わってしまっていて、内臓見えまくってる中でどうするかという時代なのではないかと強く感じる。こ

    さようなら、内臓見せるな型保守主義 - kokokubeta;
  • 谷亮子について考える - ohnosakiko’s blog

    金屏風の前の女 向うところ敵なし。一点の曇りもない勝利。押しも押されもせぬスター。 このオリンピックでまた金メダルを獲得した谷亮子は、もはやアンタッチャブルな存在である。 もともと柔道にもオリンピックにも興味はないので勝とうが負けようがどうでもいいし、スポーツ選手としての谷亮子に何の文句もない。文句つけようがないし。 ただ私は谷亮子という「女」にだけ興味がある。その「女」のプライベートな部分を、彼女はマスコミに売ってきたからだ。 亮子の「女」としての迷いのなさ、根拠なき自信に、私はこれまで圧倒され続けてきた。 かつて「将来は女優になりたい」などと口走ったのは失笑もので済んだが、結婚式に至るあれこれと新婚旅行までをすべてドキュメントさせた(「された」と言うより「させた」)番組(この春放映された)は、当にすごかった。先日久しぶりにテレビで試合後の谷選手の満面の笑みを見て、それを思い出した。

    谷亮子について考える - ohnosakiko’s blog
  • あたたかいWeb - kokokubeta;

    あたため途中のアイデアなんかを会社とかで披露すると、説明不足も手伝ってか旧来文脈で解釈されたりして、全然評価されないことがある。もとより可能性のないアイデアならしょうがないけど、ちょっと煮詰めたらなかったり、説明が多少うまくなかったりであったとしても、そこで無視されてしまうと(そうとう強く信じていない限り)そのアイデアはその瞬間に死んでしまうという不幸な事故が起きる。ところが、Webに放流した場合は、無視されたとしても何も反応は見えないだけだから、とくに発信者は落ち込まない。もちろん評価されていないわけだけれど、少なくとも無視という行為は現実と同じように見えるようにはなっていないから、過度に落ち込まなくて済む。その一方で、致命的に問題があったりすればツッコミが入るのでそれはそれで助かる。この文脈においては、現実よりもWebのほうが環境がよいというか、あたたかい。

    あたたかいWeb - kokokubeta;
  • なにがほんとうか - kokokubeta;

    某リサーチ系の人と話したけれど、「なにが当なのか」というのを見極めるのは、かなり難しいねというのがあって、これはかなり共感できた。リサーチをやるときには、対象者に聞くというのが一般的にはあるのだけれど、実際に感じたことを対象者が覚えてなかったり、覚えていても気づいていなかったり、気づいていてもうまく言葉にできなかったり、言葉にできそうでもそれをしたくなかったりと、いろいろとノイズが入ってくる。その結果出てきたリサーチの内容のどこを当のものだと考えるか見極めなければいけない、でもそれはかなり難しい。 不完全ながらもいろいろ手法はある。言葉を介して聞かないというのが複数あって、行動データからだけ読むとか、深層意識探るとか、まあたくさんあって興味深いのだけれど、なんていうか根底にはジゴロ的感性が要求されるような気がする。 ジゴロ的感性というのは、「こいつはこういう風に言っているけれど、実は○

    なにがほんとうか - kokokubeta;
  • 最強のリコメンデーション - kokokubeta;

    自分が好きなものや、気になるものをネット上で書いたり、集めたりする。そうすると、それをブックマークなり、フォローなりしてくれる人が出てくる。フォローという語感から考えると、自分に従属というか、追っかけるというようなニュアンスが出るけれども、実際は自分よりも上手というか、たいていの場合はある方面で必ず自分より優れている人である。だから最適戦略というのは、自分をフォローしたり、ブックマークしてくれる人を逆向きに追っかけるということである。自分の発信が最初にあるのだけれども、それによって推薦されるべき人(と情報)がそれにくっついてくるようなイメージである。最強のリコメンデーションというのは、こっちから発信して、そのフィードバックを逆向きに追っかけるということになる。よって、リコメンデーションで最も重要な点は、おそらく「自分の情報を出すこと」だろう。情報というのは、探すのではなくて、出すと寄ってく

    最強のリコメンデーション - kokokubeta;
  • 売るための広告はなぜあんな表現なのか? - kokokubeta;

    費用対効果が見える広告~レスポンス広告のすべて 作者: 後藤一喜出版社/メーカー: 翔泳社発売日: 2009/06/27メディア: 単行(ソフトカバー)購入: 14人 クリック: 185回この商品を含むブログ (7件) を見る レスポンス広告の正体は実は広告ではなく販売であり、小売りの一形態なのです。 インターネット広告においても、最初にブランドを出してしまうと効率が落ちる、プッシュ型ではなくプル型のコミュニケーションにした方がよい結果に結びつきやすいといった話をよく耳にしますが、レスポンス広告の場合もまったく同様です。 アパレル通販のカタログにおいても、売れるのはモデル着用写真の商品ばかりで、洋服だけを撮った写真の商品は売れません。つまりモデル写真は、ブティックにおける姿見と同じで、鏡に映ったお客様自身のイメージなのです。 著者を存じ上げないのだけれど、読むと、これが長年の経験から導か

    売るための広告はなぜあんな表現なのか? - kokokubeta;
  • いまどきの人はなにに反抗しているのか - kokokubeta;

    タクシーに乗ったら、運転手さんが自分の息子が家から出て行かないと愚痴をこぼしていた。昔は、地元にとどまれとか、堅い職業に就けみたいな圧力に対して「おらそんなのいやだ!」と出て行ったけれど、いまや「自分らしく生きろ」「自立しろ」という圧力に対し「フヒヒwwサーセン」と自宅にとどまって何もしないことが反抗なのかもしれない。

    いまどきの人はなにに反抗しているのか - kokokubeta;