「男の子の育て方」を真剣に考えてたら夫とのセックスが週3回になりました〜田房永子
実家のある九州から飛行機で羽田空港に、羽田からリムジンバスで新宿に帰る。 首都高に乗ったリムジンバスから、オレンジ色に光る東京タワーが見える。 毎年、年明けにその光景を見るたびに「今年も帰ってこれた」と思い、ほっとする。 東京は、私にとって「ここでなければならない街」だ。 ここに戻ってこれなければ、私はもう生きることができないのと同じ、戦線を離脱したのと同じだという思いがある。 東京に出てきたのは、高校を卒業し、大学に入学した年だった。 両親は私が東京の大学に進学することに反対し、親戚の中で祖母と叔父だけが、私の進学に賛成していた。 引っ越しを迎えるその日まで「行ってもいい」とは、言われなかった。それでも学費は払ってくれた。 叔父が「貰っとけ」と、50万入った封筒をくれた。厚い、厚い札束だった。 あんなぶ厚い札束を触ったことはない。 私は進学校に通っていたので、クラスの中で東京や関西の大学
実家のある九州から飛行機で羽田空港に、羽田からリムジンバスで新宿に帰る。 首都高に乗ったリムジンバスから、オレンジ色に光る東京タワーが見える。 毎年、年明けにその光景を見るたびに「今年も帰ってこれた」と思い、ほっとする。 東京は、私にとって「ここでなければならない街」だ。 ここに戻ってこれなければ、私はもう生きることができないのと同じ、戦線を離脱したのと同じだという思いがある。 東京に出てきたのは、高校を卒業し、大学に入学した年だった。 両親は私が東京の大学に進学することに反対し、親戚の中で祖母と叔父だけが、私の進学に賛成していた。 引っ越しを迎えるその日まで「行ってもいい」とは、言われなかった。それでも学費は払ってくれた。 叔父が「貰っとけ」と、50万入った封筒をくれた。厚い、厚い札束だった。 あんなぶ厚い札束を触ったことはない。 私は進学校に通っていたので、クラスの中で
40歳を前にして、急にそれまでに会ったことのないような人種の人と出会うことが増えた。野心があって、自分のしたいことに正直で、てらいがまったくなく、噓もないパワフルな人たちである。そして、そういう人たちはもれなくすごく軽やかで、自分に嘘がないから健やかでもある。 私は自分自身が、どちらかというと内向きな人間で、野心はあるものの、それをはっきり表に出すのはなんだか恥ずかしく、欲しいものにパッと手を伸ばすことができない人間である。そんな自分にとって、真っ直ぐにパワフルな人たちはまぶしすぎて、どうしても劣等感を感じてしまうから、無意識のうちにあまり近づかないようにしていたところがあった。出会っても「あの人は私とは違う」と、どこか一線を引くようなところもあった。 でも、そんなことをしていられなくなった。実際に会って、その人たちの屈託のなさ、ためらいのなさ、妥協のしなさ、自分を曲げない意志の強さ、世間
2015年の年始に、友達との新年会で、親との関係の話になった。私は親と、特別仲が悪いわけではないし、年に1~2回は帰省している。が、帰省して泊まるのは祖母の家で、自分が家を出てから、実家に泊まったことは一度もない。主な理由は、父だった。 私と父の関係が微妙になったのは、もとをただせば、本当にくだらない話だ。まず、うちの父は厳しかった。娘を公務員にしたがっていて、九州大学に入れたがっていた。そして品行方正になってほしかったのか、単に心配だったのか「日が暮れたら外出禁止」という門限が課せられていた。そんなのは、私の世代でも、田舎の話であっても、ありえないくらい厳しい門限だった。 私は中学生の頃から、音楽を聴くことが好きになった。まず爆発的にハマってしまったのが、なんとB'zである。しかしこんな門限でライブなんか行けるはずもない。お金もない。私は知恵を絞り、土日だけ梅ヶ枝餅屋で時給500円のバイ
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