劇団四季の元代表で、「キャッツ」「ライオンキング」のミュージカルを手掛けた演出家の浅利慶太(あさり・けいた)さんが13日午後5時33分、悪性リンパ腫のため都内の病院で亡くなった。85歳だった。 デザイナー森英恵さんのコメント ショックです。長い間、浅利さんの仕事を手伝ってきました。特に印象的なのはミラノ・スカラ座のオペラ「マダム・バタフライ」の衣装を担当したこと。オペラに対する浅利さんの厳しいけれど、一筋な姿勢が思い出されます。日本の純粋な美意識を地球規模で表現された。世代を超えて楽しめるミュージカルの上演を手がけ、演ずる人、見る人とともに日本文化を育てられた。日本にとって大きな力でした。私の仕事人生の中で特別なものです。
「劇団四季」創立メンバーの一人で、98年長野冬季五輪の開閉会式の総合プロデュースを手掛けた演出家の浅利慶太(あさり・けいた)さんが7月13日午後5時33分、悪性リンパ腫のため都内の病院で死去していたことが18日、発表された。85歳。「キャッツ」「ライオンキング」など日本にミュージカルを根づかせ、ロングラン公演を成功させた。 巨星墜(お)つ―。訃報を聞いての実感だ。ある作家が浅利氏を「織田信長だ」と言ったが、戦略家で激情家で、信念の人だった。野球少年だった浅利氏は根っからのG党。それに例え「ウチのONは保坂知寿と野村玲子だ」と言った。当時の男優陣は鹿賀丈史、滝田栄、市村正親ら。ミュージカル時代の到来を予測し女優の将来性に賭けていた。保坂は退団したが、野村は浅利夫人になった。 役者だけでなく若手スタッフ3人を営業、製作、総務に配置。俳優が切符を手売りする方法を脱皮するための戦略をいち早く練った
劇団四季の創立メンバーの一人で演出家の浅利慶太さんが7月13日午後5時33分、悪性リンパ腫で都内の病院で亡くなったことが18日、分かった。85歳だった。かつて劇団四季に所属していた俳優の市村正親(69)が同日、都内で会見を開き、「日本のミュージカル界を引っ張っていったのは浅利さんの力が大きい。偉大な人でした」としのんだ。 市村は73年、浅利さんオリジナル演出の舞台「イエス・キリスト(ジーザス・クライスト)=スーパースター」で初舞台を踏み、その後、90年まで劇団四季で活動。浅利さんについて「とにかくダンディーで笑顔がステキ。演出家の演技なんだけど、こっちに伝わってくる」と懐かしんだ。そして「『他人の時計はのぞかない』と教わった。『人は人の時計がある。人の時計をのぞくと、なんで俺はこの役なんだと比較しちゃう』という意味です。これは僕は後輩に言ってます」。厳しくも温かい言葉をたくさんかけられた。
役者としての道を示してくれた浅利慶太さんとの別れに、まな弟子たちも悲しみにくれた。かつて劇団四季の看板スターで、芸名も浅利さんに名付けられた鹿賀丈史(67)は、恩師と過ごした日々を思い涙。市村正親(69)も「ステーキの横のクレソン」と独特の言い回しで激励を受けたことを懐かしんだ。 浅利さんが多くの希望を託し、芸名にも思いを込めた鹿賀の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。72年に四季入りし名付けられた「鹿賀丈史」は、鹿賀の出身地・石川の「加賀」に引っかけて「鹿のように俊敏で、澄んだ目をしていろ」という意味。「先生がいなかったら今の僕はいない。四季で始まった役者人生。教えを大事に、これからも進んでいきたい」。45年以上の時を超え、鹿賀は20代前半の劇団員に戻ったように、澄んだ目で、静かに泣いた。 鹿賀は入団2年目の73年、ミュージカル「イエス・キリスト(ジーザス・クライスト)=スーパースター」で華
「劇団四季」創立メンバーの一人で、98年長野冬季五輪の開閉会式の総合プロデュースを手掛けた演出家の浅利慶太(あさり・けいた)さんが7月13日午後5時33分、悪性リンパ腫のため都内の病院で死去していたことが18日、発表された。85歳。 「キャッツ」「ライオンキング」など日本にミュージカルを根づかせ、ロングラン公演を成功させた。葬儀・告別式は近親者で終えており、9月以降に四季と浅利事務所との合同でお別れの会を行う。喪主は妻で女優の野村玲子(のむら・りょうこ、本名=浅利玲子、あさり・りょうこ)さん。 まるで人生の終幕の訪れを、自身で知っていたかのようなタイミングだった。亡くなった7月13日は劇団創立65周年の前日。晩年の浅利さんを献身的に支えた妻の野村ら、近親者にみとられる中、安らかに旅立った。 昨年9月に悪性リンパ腫と診断。本人も病状を把握し、投薬治療で入退院を繰り返していた。今年4月、かなり
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