一般的に「個性」という言葉は単に「他と区別するような特徴的な性質」という意味に留まらず集団が望む自己像に抗し自己の望む自己になろうとする志向性、自己形成力という広い意味で捉えられているのではないだろうか。例えば「個性教育」のような言葉がそうだ。私個人はそんな言葉で唱えられるような個性万能を礼讃するような価値観に疑問を持つ、伝統や道徳は必要ないのかと。だがそれでもその「個性」が少なくとも「創造」という面で近代化の一つの武器となったことは否定できないだろう。 これは個人に対して集団からの同調圧力の高い日本社会でも言えることなのだが、韓国社会では家庭から国家にいたる集団のどこでもその「個性」はあまり歓迎されない。当地において「個性が強い」と言えばほとんど「わがまま」「変わり者」「偏屈」に近いどちらかといえばネガティブな意味が強い。周囲を見回しても少なくとも見かけは良き父、良き母、良き国民の聖人君