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2019年5月8日のブックマーク (5件)

  • 【佐々木則夫の転機】迷っている背中を押してくれた大病の妻 - ライブドアニュース

    2011年、日はFIFAの国際大会で初めて優勝を遂げた。なでしこジャパンがドイツワールドカップ決勝でアメリカをPK戦の末くだしたのだ。指揮官は佐々木則夫。2007年12月、監督に就任して4年で世界の頂点に立った。 高校時代は帝京高校のキャプテン。明治大学時代は、後に日本代表の10番を背負う木村和司と同期。だが大学を卒業するときはまだ日にプロサッカーは誕生しておらず、佐々木は社会人サッカーの道に進む。 そこではサッカー部存続の危機もあった。チーム作りに奔走する時期もあった。そして家族の病気で心を痛める日々も続いた。そんな大きな「転機」をいくつも乗り越えながら先に進んだ佐々木だからこそ、幸運が微笑んだのかもしれない。 【取材:日蹴球合同会社・森雅史/写真:浦正弘】 「1シーズンだけサッカーをやらせてくれないか」 私は現役を33歳までやってたんですよ。大学を卒業して日電信電話公社に入社し

    【佐々木則夫の転機】迷っている背中を押してくれた大病の妻 - ライブドアニュース
  • 【松木安太郎の転機】初めは揶揄されていたテレビの仕事 - ライブドアニュース

    2019年5月5日 11時0分 by ライブドアニュース編集部 ざっくり言うと 松木安太郎氏がインタビューで、「大成しない選手」について語った 移籍した後に前のチームのことを忘れられないようでは大成しないという 「もう1回勝負しなきゃいけない」「そこでがんばんなきゃ」と述べた サッカー番組や情報番組のコメンテーターとして大人気のは、サッカーで数々の栄光を手にした。ラモス瑠偉など個性派の多かった読売クラブ(現東京ヴェルディ)でキャプテンを務め、日本代表にも選ばれた。監督になっても初年度、翌年と最初から栄冠を手にし続けた。 いつでも華やかな松木だが、実は苦労人でもある。高校時代には中高一貫校からサッカーのために転校しなければいけなくなった。監督を辞め、始めたテレビ仕事は朝の情報番組のコメンテーター。非難も浴びつつ分野の違う世界に挑戦しなければならなかった。 松木の激動の人生の中には何度も転機

    【松木安太郎の転機】初めは揶揄されていたテレビの仕事 - ライブドアニュース
  • 【永島昭浩の転機】テレビもストライカーはゴールを取らなければならない - ライブドアニュース

    スポーツキャスターとして活躍している元日本代表のFW、永島昭浩は、生まれるのが早すぎた。高校を卒業して松下電器(現ガンバ大阪)でプレーを始めたころは、まだ日にプロリーグができる気配すらなかった。 それでもプロサッカー選手になりたいという気持ちは収まらず、永島は会社の協力者の尽力で、ついにオランダ留学を果たすことになる。結局プロにはなれなかったが、思い切って日を飛び出し勝負したことは永島にとって「転機」だった。 「転機」で学んだことは現役を終え、新たにメディアの仕事をしても役になっているそうだ。野心家が海外で学んできたことは何か。そして今、キャスターとストライカーの共通点をどこに見出しているのか。いつもの笑顔で語ってもらった。 【取材:日蹴球合同会社・森雅史/写真:Backdrop・神山陽平】 自分の日頃の行動を見ていた上司の応援でオランダへ 転機と言えば、日韓戦が絡んでるけどな私は小

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  • 【前園真聖の転機】訪れた栄光の「後」の日々 - ライブドアニュース

    2019年5月3日 11時0分 by ライブドアニュース編集部 ざっくり言うと 前園真聖氏は引退すると決めて、最初にサッカー教室を始めたという 解説者としての仕事もあったが、スケジュールが埋まらず一日中家にいる日も 現役時代のサイクルとの違いに、心が落ち着かない時期もあったそう 1992年、高校を卒業してJリーグの横浜フリューゲルスに入団するときからはスターだった。1994年元旦の天皇杯決勝には先発出場し、チームの栄冠に貢献する。1996年には日にとって28年ぶりとなる五輪にキャプテンとして出場し、ブラジルを破るという「マイアミの奇跡」を起こした。 だが念願のスペイン移籍が破談に終わってしまう。またドリブルで突っかけていくスタイルは、止められないと思った相手からの反則を招き、ケガを負わされることが相次いだ。 失意や痛みに耐えつつピッチに立ち続けたが、31歳のとき、ついにスパイクを脱ぐ決断

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  • 【木村和司の転機】日本の転機はあの試合 - ライブドアニュース

    2019年5月1日 11時0分 by ライブドアニュース編集部 ざっくり言うと サッカー日本代表は1986年・W杯アジア最終予選で、韓国相手に連敗した 元代表の木村和司氏は「日サッカーの転換期はそこだもん」とコメント 日にもプロリーグがないとダメだという話になり、変化していったという 日ワールドカップ初出場を決めた1997年11月の12年前、日韓国ワールドカップ出場をかけて戦い、そして敗れた。当時、日の攻撃を指揮していたのは。大学時代から日本代表としてプレーし、正確なFK、意表をついたパス、ここぞというときのフィニッシュで10番を背負い、日サッカーの中心人物だった。 その後代表から遠ざかり、クラブでは突然引退する。監督としてのチーム復帰したが、失意のうちにクラブを去ることにもなった。そして2015年には脳梗塞で倒れ、誰よりも繊細だった黄金の右足は思うように動かなくなった

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