小笠原、代表落選し静かに「さみしい」 もう何年も聞いていない言葉だった。まして30歳の、大男が口にすると、余計に切なさがこみ上げてくる。 「さみしい」。 日本代表の岡田武史監督が、バーレーン戦(3月3日)に臨むメンバーを発表した日、落選したMF小笠原が静かに気持ちを吐き出した。 1月25日から始まった鹿児島指宿合宿で、3年7か月ぶりに代表に復帰した。岡田監督から「チームの足りない部分に、色を出してくれ」と言われ、「これはやってもいいの?」とチームコンセプトを重視しながら、慎重に岡田ジャパンに足りない、サイドチェンジやDFライン裏へのパスを取り込もうとしていた。 メッシーナから鹿島に復帰して2年半年。テレビインタビューを受けたのは、数えるくらいしかない。1番は、苦手。2番目の理由は「自分が受けたら、せっかく活躍した若手がテレビに出られない」という信念を持ち、試合後のインタビューを断り続
見習いたい元大分社長・溝畑氏の“たくましさ” 1月のある日。平和な昼下がり。静寂に包まれていたJFAハウス記者室に突如、大きな声が響いた。 「どうも! どうも! どうも! 溝畑です!」 1月4日付けで観光庁長官に就任した元大分社長の溝畑宏氏(49)が、2人の側近を引き連れて突然に現れた。大分は昨年、深刻な経営難に陥り、その責任を取る形で辞任した。チームの成績も振るわず、J2に降格。大分は、クラブ存亡の危機に陥った。しかし、前社長は、08年ナビスコ杯優勝など、それまでクラブを成長させたとして、その手腕が評価され、自らの立場を“昇格”させた。 「観光庁長官 溝畑宏」と大きく書かれた名刺を報道陣に手裏剣のように配った。さらに「あれ? この名刺には携帯電話の番号が入っていないな」と溝畑長官はつぶやくと、プレスルームにあった資料の裏に番号を大きく書き「何かありましたら、いつでも電話してください!
なぜ、小笠原はMVPに選ばれながら悔しがったのか Jリーグアウォーズ表彰式。鹿島MF小笠原は壇上で悔しさをかみしめた。「もっとウチの選手がベストイレブンに選ばれてもいいんじゃないか。残念で す」。司会者には「えっ、そうですか。鹿島からは3人も選ばれましたよ」と軽く流されたが、舞台から降りてもなお「MVPのうれしさが、かすむくらいに悔 しい」と繰り返した。 ベストイレブンを始めとする受賞者は選手投票を元に、最終的に選考委員会(J1クラブ社長ら23人で構成)で決まるが、その過程に問題がある。今季はほとんどのクラブが33節前に、選手から投票を回収している。Jリーグ事務局が定める提出期限は33節直後で、それに間に合わせるため、早々に集める必要があった。これは何も今年に限ったことではなく、昨年もその前もそうだった。 優勝も順位も決まっていない段階で「ベスト」を選ばせる。当然3位か7位で違うのに。また
厳格な記録員 鹿島が8日の山形戦で相手のシュートを0本に抑える“完全試合”を達成した。野球で言う完全試合は、9回で許した走者がゼロ。サッカーでその表現が適し ているかは別にして、相手に得点機を与えなかったこと、リーグ創設17年目で初めて刻まれた記録という実現性を考慮しても、完ぺきな守備だったと言ってい いのではないか。 それでも、記録員を務めた鹿島の大久保さん(総務部担当課長)は意外な感想を口にした。「シュート0本と打ち込んだのは初めてでしたが、仕事をこなしたという感じで」。試合後はレフェリーから公式記録にサインをもらうため、スタジアム4階から1階へと全速力で駆け下りた。感慨にふける時間も、そのつもりもなかった。 鹿島主催試合の場合、4人で記録をつける。試合を見る担当が2人。コンピューター入力担当が2人。1人が「〇番、シュート」「〇番、ファウル」と声かけをしながら記録を積み重ねていく。シュ
「井原主将」の率直さ 私の中では今でも「主将」が「監督(代行だけど)」になった。 15日、柏は、成績不振を理由に高橋真一郎監督(51)を更迭。後任のネルシーニョ監督(58)が就任するまで、20日のG大阪戦に限り、井原正巳ヘッドコーチ(41)が、監督代行として指揮を取ることになった。 初めてのJリーグ采(さい)配は、複雑で難しい状況。どんな指揮をするのだろうか―私は、日立柏サッカー場へ、駆けつけた。 私が、サッカー担当記者になった時、井原コーチは、横浜Mでも日本代表でも主将を務めており、日本サッカー界の中心にいた。スター選手だった井原主将は、一見の記者に対しても、とても誠実だった。 1999年シーズン終了後のことだった。ミスターマリノスと呼ばれた男も32歳となり、横浜Mを去ることになった。移籍先は、そのオフのサッカー界の大きな関心事。私も多方面を取材した。もちろん、本人にも。ある日、横浜市内
試合を見ない観客の謎 何か、おかしい。 4日、東京・国立競技場で行われた国際親善試合フィンランド戦のことだった。試合中、記者席で私の携帯電話が鳴った。某関係者からだった。声が聞き取りにくかったので、記者席を離れ、スタンド下に降りた。電話を切った後に気付いた。試合中にもかかわらず、なぜか、スタンド下にいる人が多いのだ。 急きょ、650メートルの回廊走路となっているスタンド下を1周、走った。記者席があるメーンスタンド下だけではなく、バックスタンド下にも、多くの人が試合観戦せずにたむろしていた(両ゴール裏スタンド下には、ほとんどいなかったが)。 フィンランド戦は試合前日まで前売り入場券は約2万3000枚と伸び悩んでいた。97年の第1次岡田ジャパン以降の代表戦観客動員ワースト記録(2万6971人)=08年1月30日、ボスニア・ヘルツェゴビナ戦=の更新も心配されていたが、ふたを開けてみれば、観衆は
「ミシェウの日本語力」 5日の浦和戦(フクアリ)で千葉のMFミシェウ(26)は、来日初シュートで初ゴールを決めた。試合後ゴール裏へあいさつに行き、「私は黒い日本人です」と日本語で言い、爆笑を誘った。 ミシェウの日本語学習能力には驚かされる。8月上旬に来日から数日後、「またあした!」と言われた。ポルトガル語の「アテッアマンニャン(またあしたの意味)」に似ているから覚えたのかな? と思っていたが、そうではなかった。 来日から約1か月経ったころ、「大丈夫!」と言っているのを聞いたので、「日本語覚えるの早いですね」と通訳を介して話しかけてみた。するとポルトガル語で「もし気を悪くさせたらごめんなさい」と前置きしてから、次々と覚えたての日本語を披露してくれた。「兄弟。家族。男の子…」単語に始まり「あなたのお姉さん元気ですか?」と文章も。さらに「あなたカワイイ。とてもカワイイ」とお世辞まで! 最近はク
「川口能活骨折事件」の平間が引退 例年、約120人の新人が胸を躍らせ、プロサッカーの世界に飛び込む。同時に、ほぼ同数の選手がピッチを去る。勝負の世界は厳しい。 昨季限りで現役引退した約120人の選手のうちの1人、平間智和君(30)と、日本サッカー協会の事務局で再会した。彼は1996年に横浜Mに入団し、その後、山形、仙台、札幌などで活躍。昨年、JFLのソニー仙台でのプレーを最後にスパイクを脱いだ。話を聞くと、今年から日本協会のスタッフとして働くことになったという。 その昔、横浜M担当だった私は、スピードが持ち味だったMFを鮮明に覚えている。小気味いいプレースタイルと同じように、快活な性格の平間君と思い出話が弾んだ。 横浜Mサポーターは覚えているだろう。「平間智和」と言えば「川口能活骨折事件」が思い出される。 96年9月14日、福岡戦。横浜Mのゴール前の混戦で、平間君が誤って川口の右手を踏み、
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