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ブックマーク / inri.client.jp (8)

  • ヒトラーの宗教観・宇宙観

    ●『ヒトラーのテーブル・トーク』(三交社)というがあるが、このは1941年から1944年にかけて、ヒトラーが側近に語りかけた会話を速記録してまとめ上げたものである。 当時、ヒトラーから最も信頼されていた秘書のマルチン・ボルマンが速記録を訂正、また人から承認を取り、かつ個人保管していた資料なので、俗に『ボルマン覚書』とも呼ばれている。 (左)ヒトラーに忠実な側近中の 側近だったマルチン・ボルマン大将 (右)『ヒトラーのテーブル・トーク』 ボルマンはドイツ敗戦直前まで、総統秘書長、 副総統、ナチ党官房長として絶大な権力をふるった。 ヒトラーの卓上談義を記録した『テーブル・トーク』は、 「公式記録」として残されたものであり、俗に 『ボルマン覚書』とも呼ばれている。 ●このの「解説序論」で、イギリスの高名な歴史家ヒュー・トレヴァー=ローパーは次のように書いている。 オックスフォード大学の歴

    maturi
    maturi 2022/04/20
    思想の核をなしていた『終末的歴史観』。彼はこの歴史観で自らの使命を自覚し、それをバックに人を判断した。 ヒトラーがこの歴史観を明言したのは獄中で敗北の苦杯をなめていたかに見える1923年だった
  • ナチスとアメリカの「優生思想」のつながり

    ■■第1章:ナチスとアメリカの優生学者は親密な関係にあった ●「優生思想」とは、劣等な子孫の誕生を抑制し優秀な子孫を増やすことにより、単に一個人の健康ではなく一社会あるいは一民族全体の健康を計ろうとする思想をいう。それゆえ、「優生学」は「民族衛生学」とも呼ばれる。 ●ドイツ歴史学者シュテファン・キュールが書いた『ナチ・コネクション』(明石書店)というでは、アメリカの優生学者とナチスの親密な関係が紹介されている。このを読むと、人種改良のイデオロギーは、決してドイツの科学者だけのものではなかったことが分かる。 戦後にドイツを裁いたアメリカこそが、実はナチスの優生政策の先駆者だったのであり、戦前のヨーロッパにはドイツの他にも優生政策を推進した国があり、福祉国家スウェーデンでは戦後も根強く優生政策を存続させていたのだ。 『ナチ・コネクション』 シュテファン・キュール著(明石書店) アメリカ

    maturi
    maturi 2021/02/09
  • ナチスとアメリカの「優生思想」のつながり

    ■■第1章:ナチスとアメリカの優生学者は親密な関係にあった ●「優生思想」とは、劣等な子孫の誕生を抑制し優秀な子孫を増やすことにより、単に一個人の健康ではなく一社会あるいは一民族全体の健康を計ろうとする思想をいう。それゆえ、「優生学」は「民族衛生学」とも呼ばれる。 ●ドイツ歴史学者シュテファン・キュールが書いた『ナチ・コネクション』(明石書店)というでは、アメリカの優生学者とナチスの親密な関係が紹介されている。このを読むと、人種改良のイデオロギーは、決してドイツの科学者だけのものではなかったことが分かる。 戦後にドイツを裁いたアメリカこそが、実はナチスの優生政策の先駆者だったのであり、戦前のヨーロッパにはドイツの他にも優生政策を推進した国があり、福祉国家スウェーデンでは戦後も根強く優生政策を存続させていたのだ。 『ナチ・コネクション』 シュテファン・キュール著(明石書店) アメリカ

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    maturi 2021/02/09
  • 意外にも評価が高かった初期のヒトラーの政治手腕

    ■■序章:はじめに ●今となっては意外に思われるかもしれないが、初期のヒトラー(1939年の第二次世界大戦勃発まで)は当時のドイツ国民から多大な信頼と支持を受けていた。 実際、ヒトラーはクーデターとか非合法的に世論を完全無視する形でドイツを“乗っ取った”のではなく、いちおう合法的民主的手続きを経て首相に就任し、政権の座についたのである(1933年1月30日)。 1933年にドイツ国民の選挙で誕生したヒトラー政権 ※ 第一次世界大戦の敗北による領土の喪失、天文学的な賠償金、 世界恐慌による失業者の著しい増大、共産主義者や無政府主義者の 騒乱による社会不安──。こうした状況下でドイツ国民は力強い メッセージを表明するヒトラーを支持していくことになる。 ※ ヒトラー率いる「ナチ党」は、1932年の選挙で 第一党となった。その際、議席は過半数には 満たなかったものの、保守派と連立して 1933年に

  • ソ連・東欧諸国でのユダヤ人虐殺 ~知られざる第二次世界大戦の悲劇~

    ■■序章:第二次世界大戦前のウクライナ地域 ●ハザール王国時代以来、ウクライナ人とユダヤ人はウクライナ地域(ガリチア地方含む)で何世紀にもわたって一緒に暮らしてきた。この地域はハザール王国滅亡以降、多くのユダヤ人が住んでおり、特に東ガリチアの町ドロゴビッチはユダヤ教の一大中心地となっていた。 しかし、ウクライナ人とユダヤ人の間には常に社会的緊張関係が生じていた。ウクライナ人が抱く反ユダヤ的感情は、他のヨーロッパ諸国に負けないほど激しかった。 「ハザール王国」は7世紀にハザール人によって カスピ海から黒海沿岸にかけて築かれた巨大国家である。 9世紀初めにユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ない ユダヤ人以外のユダヤ教国家となった。 ●ウクライナを支配した民族は、ロシア人であれポーランド人であれ、あるいはまたドイツ人であれ、全てこの緊張関係を利用した。ウクライナ人が反抗してウクライナ人の国家を

    maturi
    maturi 2016/01/01
    ポーランド北東部で起きたユダヤ人大量虐殺事件を調査している同国の国家記憶協会(IPN)は4日、有名な「イエドワブネ事件」以外に少なくとも30件の虐殺事件がナチスではなくポーランド住民によって引き起こさ
  • 上海と満州のユダヤ難民 ~ユダヤ難民を保護した日本~ ■■第3章:満州のユダヤ人と「フグ(河豚)計画」の謎

    ■■第1章:上海のユダヤ難民を保護した日政府 ●19世紀末、上海には、「アヘン戦争」(1840年)が大きなきっかけとなって、ユダヤ・コミュニティが結成されていた。 上海におけるユダヤ人口は、中東出身のスファラディ系ユダヤ人700人、欧米系のアシュケナジー系ユダヤ人4000人ほどであったが、「アヘン戦争」以来、上海港を根拠地として発展した英・米・仏国籍のスファラディ系ユダヤ人が、あらゆる点で支配的勢力を占めていた。 ※「上海証券取引所」の所長と99人の会員の3分の1以上がスファラディ系ユダヤ人であった。 中東出身のユダヤ人 デビッド・サッスーン (1792~1864年) 彼はアヘン密売で莫大な 富を築き「アヘン王」と呼ばれた ビクター・サッスーン(ユダヤ人) (1881~1961年) 「上海キング」と呼ばれていた彼は 極東で一、二を競うユダヤ人大富豪であり、 上海のユダヤ人社会のリーダーだ

  • 「アヘン戦争」の舞台裏 アヘン王サッスーンの暗躍と上海に築かれたユダヤ人社会の実態

    ■■第1章:「アヘン戦争」と「サッスーン財閥」 ●「アヘン戦争」は調べれば調べるほど、むごい戦争(汚い麻薬戦争)だったことが分かる。 1971年に「第25回毎日出版文化賞」を受賞した陳 舜臣氏の著書『実録アヘン戦争』(中央公論新社)には、次のような言葉が書かれてある。 「『アヘン戦争』は、単にイギリスによるアヘン貿易強行のための中国侵略戦争以上の意味を持っている。この“西からの衝撃”によって、我々の住む東アジアの近代史の幕が切って落とされたのである。」 『実録アヘン戦争』 陳 舜臣著(中央公論新社) ●この「アヘン戦争」は、イギリスの「サッスーン家(財閥)」を抜きにして語ることはできない。 「サッスーン」という財閥名(ファミリー)を初めて聞く人は多いと思うが、以下、詳しく紹介していきたい。 ◆ ◆ ◆ ●「サッスーン家」は、もともとは18世紀にメソポタミアに台頭したユダヤ人の富豪家族で、ト

    「アヘン戦争」の舞台裏 アヘン王サッスーンの暗躍と上海に築かれたユダヤ人社会の実態
  • ロシアとウクライナのユダヤ人の悲史

    ■■序章:はじめに ■1991年のソ連崩壊に伴い独立したウクライナ ●1991年に「ウクライナ」という国が旧ソ連から独立した。温暖な黒海に面し、欧州ではロシアに次いで国土面積が広い国である。この国南部のステップ地帯には、黒土(チェルノジョーム)と呼ばれる肥沃な土壌が広がり、「ソ連邦の穀倉」と呼ばれていた。 ウクライナの国旗 ※ 旧ソ連時代にウクライナロシアに次ぐ 第2の共和国として経済的・人材的にソ連邦を支えた ●1986年、この地域で「チェルノブイリ原発事故」が起きた際には、唯一の被爆国である日から多くの専門家が派遣されて話題になったが、一般にウクライナは日人にはあまりなじみのない国といえよう。 (左)ウクライナの地図 (右)1986年4月にウクライナ北部の チェルノブイリで原発事故が起き、世界を震撼させた ●しかし、東欧ユダヤ人の歴史を知る上で、このウクライナ歴史を知ることは非

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