昨日の続き 『日本銀、朝鮮をゆるがす』 (前半略)1526年に石見(山口注:現在の島根県の一部)で鉱石の採掘が始まり、33年に灰吹法の導入により増産をみた日本銀は、当初は国内の需要は僅かであり、大半が輸入の決済に宛てられたり、あるいは輸出商品として、海外に流出していった。その状況を最も詳しく知り得るのは朝鮮の史料である。 16世紀のはじめまでは、日朝間の貿易において銀はむしろ日本側の輸入物資だった。 この頃朝鮮では、咸鏡道の端川を中心に銀山が栄え、政府は採掘を民間に委ね、銀を税として納めさせていた。この銀は通事らによって密かに中国に持ち込まれ、或いは日本との貿易の決済に宛てられた。例えば1501年、対馬島主の使者が銅1万3500余斤の買い取りを請い、また翌年には銀1000両を求めている。 右の例が示すように、この時期、朝鮮を訪れる倭人が携えた商品の中心は銅だった。 (中略) 1528年、あ