戦争が終結し、ようやく軍用のクルマ作りから解放される。豊田喜一郎は国産乗用車作りの夢に、再び取り組もうとしていた。東京から挙母工場に帰ってくると、すでに取締役になっていた従兄弟の豊田英二(後にトヨタ自動車の会長、名誉会長など歴任、2013年没)を呼んで量産小型乗用車の研究を始めるよう指示した。戦争が終わったのだから、これからは大衆に自動車が普及していくことになる。喜一郎は、焼け跡の中で未来への明るい希望を思い描いていた。 しかし、現実には多くの困難が待ち構えている。挙母工場は爆撃を受けていた。動員を受けてトラック生産に携わっていた人々は退社するものも多く、9500人ほどいた従業員は秋までに3700人にまで減少した。 まずは、なにより残った社員たちを食べさせていかなければならない。私財や部品をかき集め、無事だった工作機械を使って9月から12月にかけて約1000台のトラックを製造した。自動車だ