演奏家に焦点を当てて、音楽を「イベント」化する動きに違和感があるのは、演奏家が拠り所にしている情報源(クラシック音楽流の楽譜=テクストであれ、邦楽流の伝統であれ)を聴き手から隠そうとする感じがするからではないかと思う。「イベント」で「プレイヤー」へと注意を集めると、まるで「プレイヤー」がイベントの中心であり、出来事の源泉(光源)であるかのようだけれど、実際には、プレイヤーは楽譜/テクストであれ伝統であれ、背後の光源によって輝いているに過ぎない。「プレイヤー」の存在だけをクローズアップするのは、光源をプレイヤーが聴き手の視界から隠してしまう皆既日食のような感じがする。 でも、通常、聴き手もまた、プレイヤーを介することなく、自力で情報源にアクセスできる。自力で楽譜/テクストを読んだり、当該の伝統に知的もしくは体験的にアプローチすることが可能ですよね。そしてそのような知見を前提にして、目の前のプ