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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (5)

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    ●『輪るピングドラム』第11話。えーっ、そうきちゃったのか、という感じ。オープニングの「95」という数字、丸の内線沿線が舞台であること、そして村上春樹(かえるくん)への言及などから、地下鉄サリン事件が意識されていることは確かに匂わされてはいたけど、まさか、今まで散発的に展開されてきた様々な出来事の収束点(出発点)のような位置にそれがどかんと置かれてしまうとは…(空間的には「水族館」と同じ位置に、時間的には「あの事件」が置かれてしまった)。正直、射し込まれたという感じでかなり戸惑っている。この先、どうなっちゃうんだろうか。 サリン事件に触れるということは、オウム真理教にも触れざるを得なくなってしまうのではないか(晶馬が加害者の側にいるかのような口ぶりなので、なおさら)。そうなると、この物語はいったいどこに向かって行くことになるのだろうか。とはいえ、作品の展開としてはまだ収束には遠い半ば辺りで

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    ●引用、メモ。「思想地図」の千葉雅也のテキストを読んで知ったのだが、「表象」02号に載っているマラブーのインタビュー(「可塑性とポストヒューマンな未来」)がすごく面白い。ここで話題になっている『新たな負傷者たち』というは翻訳される予定はあるのだろうか。 以下、(1)として引用する部分は、≪皮膚、筋肉、臓器、脳の一部など、あらゆるものがいまや、自らによって代替されようとしています≫という風に語られる、自らが自らによって代替されるという究極的な自己言及についてであり、それは例えば、脳そのものを対象化した脳自身によるはたらきかけが、脳に(決定的な)変形を与えてしまうということが実際に技術的に可能になったというような現状に関するもの。(2)として引用する部分は、だがそのような条件のなかでの自身へのはたらきかけは常に「暴力的な外傷」としてあり、その時自己は、自己のままでありながら、その前と後ではま

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    ●樫村晴香によるドゥルーズへの批判のキモになるのは、強度−反復が直接的に象徴的なもの(シニフィアンの連鎖)を組み替え、意味を生産し得るかのような記述(二重のセリーの理論)に対して、それはあり得ないという点にあると思われる(「ドゥルーズのどこが間違っているか?」)。強度と意味とは根的に次元を異にしているのであって、それを混同してしまうことによって、ドゥルーズの理論は、現実の分節ではなく、幻想と化する、と。それが、例えばニーチェにとって固有の病(固有の地獄)として生きられるしかなかったものを、あたかもあり得べきユートピア(あるいは理念)であるかのように読む傾向が生じる、と。あるいは、それでは倒錯(クロソフスキー)を捉え損なう、と。 《対象関係(原初的対他者関係)からこそ発生する、攻撃的−暴力的、つまり「弁証法的」な要素への無関心と、それ以上に、人間の身体−情動の回路と、言語−思考−意味作用の

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    ●ある映画作家についての文章を書くことになっていて、その過去の作品のDVDを探しに久しぶりに新宿のツタヤに行き、目的のものは無事レンタル出来たので一つ上の階の日映画とアニメのコーナーをぶらぶらしていたら、『ポニョはこうして生まれた--宮崎駿の思考過程』というドキュメンタリーがあった。NHKのディレクターが制作の初期段階から完成までを密着して撮った、全部でDVD五分、十二時間以上もある作品なのだった。気になって、とりあえず最初の三だけ借りることにした(これは三日前のこと)。 ●で、これが当にすばらしい。「作品」をつくっているあらゆる人にとって、勇気の源となり、導きの糸となり、同時に、喉元に突きつけられた刃となるようなものだった。世界の巨匠であろうと、凡庸な作家であろうと、作品をつくる時にやるべきこと、外してはならない段取り、進むべき道を探すための過程、その不安や逡巡は、何もかわらない

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    ●自分の背中や後頭部ごしに風景を見ながら歩く、という感じで散歩することは可能だろうか。 ●読んでいないけど、ジョルジュ・ペレックの『煙滅』という小説があって、それは「e」という文字を一度も使わずに書かれていて、その翻訳は「い段(いきしちに…)」を一度も使わずに訳されているそうだ。しかし、そのような、あからさまに実験的-挑発的なやり方ではなく、ひっそりと、ある一文字が使われないまま小説が書かれ、しかもその文字の回避は作者にとっても無意識に作動する抑圧としてなされ、作家にさえ意識されてもいなかったとき、その小説を読んで、特定の一文字の不在を感知することが出来るだろうか(実在しない文字が一つ追加された時は、その異物-過剰はすぐに感知されるだろうけど)。 いや、それはちがうか。そうではなく、その小説の「登場人物」が、その文字の不在に気づくことが出来るのだろうか。 あらかじめ、その基底にある一つの欠

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