結局のところ、物事に意味なんてないんだから、それにリソース割いても仕様がない、それこそ仕様という、天命であり運命であるってことにしておいて、なぜこのようなことになったのか、なんてベクトルに考える力をストップさせて、それでこれからどうするのか、を考える方に向けさせよか、てなことなんじゃないかなとか思う。 末期ガンにせよ、交通事故にせよ、愛する人間の不遇の死にせよ、そこに何の意味なんかありはしないように、顔面が癩病で崩れたことも、また、それは天命である、っつー。どうして自分がこんな目に!と憤り恨み呪い腐るのではなく、これもまた天命であるのだから仕方がない、さて、それでわたしは、これからどうやって過ごしていこうかな、って方向に考えを向けさせるための。 そう考えてみると、自分の意思でどうにかできる権内のことと、自分の意思ではどうにもできない権外のことを、きちんと区別した上で、権外のことについて悩む
あくまでイメージの話 私にとって散文とは、表面をなぞるものであり囲うもの。言葉は曖昧で、実体がなくて、常に不完全で、それゆえに「まさにこれ」と指で指して示すことができず、伝えたい事柄の周囲を行ったり来たりして覆うことでその中心にあるものを連想させる。寄せて返す波のようであり、くっつきそうでありながらなかなかくっつかない恋愛漫画の男女のよう。文学的な文章を書くコツとして「私は悲しかった」といった直接的な表現は避けて別の言葉を使うことというものがあるが、それのことだ。自然と言葉数が増える。言葉の包囲網が対象の輪郭を浮き上がらせ、内容を推し量らせる。 これに対して詩は骨であり、その骨に備わるであろう肉を感じさせるところに詩の決定的な力がある。濃縮された言葉があるというよりは、言葉の野太い真理が横たわってそこにあって、その力強い真理が周囲に様々の情念を引き寄せる。唱えられた一つの言葉が、唱えられて
今朝私がTwitterでつぶやいていたのをブログでまとめてなおしてみます。かなり加筆修正してます。 結論からいうと、うまく説明するためにまずやっておきたいのは、 1.説明するものについて理解しておく 2.理解を定着させるために自分の言葉で書いておく ということになると思います。 1.言葉の蓄積 そもそも言葉を発するというは小さな子どもが鸚鵡返しすることから始まる。子どもが真似して声を出してみようとする姿は、だいたい想像がつくと思う。 「ママ」という言葉も、周りにいる誰かが「ママ」と発音することから、それを真似て「ママ」と発音するようになるのだと思う。この「ママ」という言葉は、ご飯を示す「まんま」なのか母親を示す「ママ」なのかは、実際はっきりと区別がつかないものだったりする。ご飯も母親も「まんま」である場合も多い。 さて、聞いたこともない言葉というのは使えないものだ。聞いて言葉を覚えて、それ
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く