そろそろコソボ問題に言及しとくべき時期にきているようだけど、なんとなく昨日の続きのような与太話。今度は人類文明編。でも、書いてみたら今朝の除雪ならぬ、序説っぽくなってしまった。 高校生のころ図書館にトインビーの全集があって学校の世界史の勉強の参考書というか批判的参考書がてらにぽっつりぽっつり読んでいた時期があった。具体的なことはあまり頭に残っていないが、文明をフラットに見る感じと、微妙に大英帝国的な世界の感性の影響を受けたかと思う。彼は四大文明という発想を捨てるというか拡張し細分化していた。そのころ自分が思ったことで今でも覚えているのだけど、文明というのはようするに今の文明につながっているかどうかということだけが問題の軸なんじゃないかな、今の文明と途絶した文明というのはけっこうどうでもいいんじゃないかな、いや、むしろそういう文明こそが、我々の文明が学ぶべき点があるのかなとか、そんなことだっ
与太話でも。先日、3日の日経コラム「春秋」(参照)にこんな話があった。もちろん、コラムだし些細な話である。春秋の筆法という趣向ではない。 ベランダに放置してあるプランターに、勝手に生えてきたタンポポやスミレが早くも花をつけている。狭い人為的な空間でも、みごとに生態学的な地位を築く草花のたくましさに驚く。心配なのは、彼らも我ら人類も、生存の基礎を全面的に委ねている地球の気候条件が、今大変動しているという科学者の指摘だ。 春秋子、あまり科学的なものの考えをなさらないのであろうが、科学少年の慣れて果てでかつ無粋なダーウィニストである私はこんなことを思った。「生存の基礎を全面的に委ねている地球の気候条件」とかいうけれど、別段温暖化がどんどん進んで人類が滅んでも、生命が途絶するわけではないよ、心配すんなよ、と。 氷河期だってなんどもあったんだし、そのおかげでむしろチャンスが回ってきたのが人間種の祖先
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