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ブックマーク / arabic.kharuuf.net (11)

  • カミユ『ペスト』

    カミユの『ペスト』を漫画化した作品を触りのところだけ読んだ。漫画というのはどうしてもキャラクター中心でかつ情念や行動を軸に動かざるを得ない表現で、その点で漫画化は大変意欲的ではありものの、翻案するのは苦しかったと思う。漫画でなくても、今のわたしたちが感染症と戦う人々を描くとしたら、漫然とことにあたれば「漫画的」に書いてしまうきらいがある。 『ペスト』は全然漫画的ではない。病に侵され死に瀕した人間の苦しみや、家族を失う悲しみ、病気に包囲される不安が生々しく描かれる場面がないとは言わないが、明らかに意図的に強く抑制され、描写は作為的・限定的にのみ開放される。 それくらい『ペスト』は(素材から想像されるのとは異なり)突き放した文体を維持していて、概ねいわゆる「神の視点」から書かれて見えるのだが、実はこの作品は一人称である。三人称的な語らいが延々と続く中、時々「筆者」や「記録者」が現れ、かつこの「

    カミユ『ペスト』
  • すっかりチョウチョになってしまったという寂しさの中で

    コロナがいっこうに収まらない中、吉田耕司さんの追悼写真展を訪れて写真を眺めているうちに、とても不思議な気分にとらわれた。 素朴に言葉にするなら「これは誰が撮った写真なのだろう?」とでもいう気分なのだが、もちろん撮ったのは吉田さんに決まっている。 吉田耕司さんとわたしは面識があるが、親しくしていたという程ではない。生前に展示に訪れた際、在廊していた氏と言葉をかわしたことはあるが、エネルギッシュなおじさんが少し苦手なので、ちょっと壁を作っていたと思う。その時は至って元気に見えたのだが、ご病気の知らせをうかがってから間もなく亡くなってしまった。 人が亡くなってしまう時は当にあれよあれよという間で、それが不可解に過ぎるから葬儀という仕組みがあるのだが、焼香に上がるほどの間柄でもなく、ただ言葉を交わしたことのある人がふといなくなってしまって、宙ぶらりんな気持ちになった。 わたしたちは亡くなった作家

    すっかりチョウチョになってしまったという寂しさの中で
    mfluder
    mfluder 2020/08/08
    “なにかが作られわずかながらも世界に痕跡を残すということは、そういうチョウチョみたいなものに自分を預け、すっかりチョウチョになってしまったという寂しさの中で、なおかつ営みを止めないことの中にある”
  • わからないことを畏れよ

    ちょっとあるところで少しイスラームについてのことを書いていて、その繋がりで吐き出したいことがムラムラ湧き上がって困っているので、メモしておきます。 正直、あまりシューキョーという語り方をするのは好きではないのですが、「すべてはイスラーム」なので、結果的にイスラーム絡みのことをここにも色々書いてしまっています。 しかしわたしは、地上に十億以上いるムスリムの中でも、端っこの端っこ、クズの中のクズ、まったく取るに足らない、芥子の実のような存在です。正しいとは限らないどころか、大体間違っているでしょう。仮に正しくても、それは正しいこと全体の、爪の垢ほどの小さな部分に過ぎません。 こういうことを言うのは、一つには、言うまでもないエクスキューズとして、こんな戯言をすべてと思ってはいけない、ということです。ただ、そんな勘違いをするのは多分、お坊ちゃんの大学一年生でも滅多にいないことなので、題は次です。

    わからないことを畏れよ
    mfluder
    mfluder 2017/01/22
    “フラット化によって実現される透明性とは、実のところ、そこからこぼれ落ちたものを徹底的に不可視化する運動にすぎない”
  • 経験の執拗さとさておかれない冗談

    これまでのお話: 良い抵抗と悪い抵抗などというものはない このフラットな世界でおしっこを漏らしながら兄貴の死体を埋めに行く 馬鹿には普遍はわからない、でもそこがいい! 「カラスの白さを感じてみたい」ということを書きました1。カラスが白いと心の底から当に感じている人がいるとしたら、ただそのメカニズムを科学的に理解するとかという話ではなくて、「白さ」自体を体験してみたい誘惑にかられる、ということです。 いきなり陶しい自分語りを始めますが、こういう「違和感の向こうにあるものを感じてみたい」という衝動というのは、わたし個人にとっては結構大きなモチベーションになっています。皆さんどうですか? 良い子は真似しませんか? まぁ、まともな大人はわざわざそんなことを考えないものかもしれません。多分わたしはボーダーっぽいというか、自他境界が十分に確立されていない、子供っぽい人間なんでしょうね。それで、ちび

    経験の執拗さとさておかれない冗談
  • 正しさと可愛さと喧嘩の強さと

    以前に嫌いを正義に言い換えるな、と言ったとしてもということを書きました。 単に「嫌い」ということに何らかの「正当性」の装飾を付けることで正しさを装うな、という声はまことに尤もではあるけれど、そもそも正義というのは鈍器であり装飾品なわけで、正義の存在にはすでにこの点が織り込まれているのではないのか、というお話です。 この記事でも書いたことですが、わたし自身は「嫌いを正義に言い換えるな」という感覚自体にはとても共感します。直観的にはそう感じます。 ただそういう人は、一方で鈍器や装いではない「当の正義」の存在をナイーヴに前提としている風があり(そうでもないのでしょうか)、だとしたらことはそう簡単ではない、ということです。正義はいつだって「当の正義」を主張するのですが、裸で「当」であるものなどどこにもないのです。ですから、正義の中から「当の正義」と「偽者の正義」を弁別する、というアプローチ

    正しさと可愛さと喧嘩の強さと
    mfluder
    mfluder 2016/08/16
    “「可愛いは正義」というフレーズがありますが、文字通り「可愛い」は「正義」のように振る舞うことがあり、別に「正義」ではないけれど、「可愛い」がゆえにそれが選択される、ということはよくあります”
  • 自然な身体

    昨年、フランスで痩せすぎのモデルの活動を禁止する法案が可決しました。極端な身体イメージが人びと、特に若い女性に与える影響を考慮してのもののようです。 また他にも、敢えて「理想的ではない」体型のモデルを採用した雑誌であるとか、もっと普通の体型のバービー人形であるとか、市場に流通する身体イメージを変えていこう、より自然なものにしていこう、という試みはしばしば耳にします。 こうした試みは肯定的に受け取れるもので、わたし個人としても、スーパーモデルのような身体イメージがあまりに支配的な状況には変わっていって欲しいと願っています。 それは大前提として、一方で、こうした試みに対して「やっぱり自然が一番だよね」的に受け取る向きについては、より一層の危機感を抱きます。 このような受け止め方は、実際に「商業主義的身体イメージへの挑戦」を行っている方たちの意ではないのではないかと思うのですが、少なくとも外野

    自然な身体
    mfluder
    mfluder 2016/06/14
    “この理解の危険性とは、ここで言う「自然」もまた別の標準イメージにしか他ならず、かつより一層動かし難く厄介な性質を持っていることです”
  • 『イスラーム 生と死と聖戦』中田考

    北大生渡航未遂事件のお陰で、一躍時の人になってしまったハサン中田考先生の新書。 中田先生のというと、個人的には『イスラームのロジック―アッラーフから原理主義まで』をまず挙げます。中田先生は法学の専門家ですから、その専門バリバリの著作は非常に取っ付きにくいのですが、『イスラームのロジック』は一般向けの網羅的なもので、かつ日の読者に擦り寄ったご都合主義的な面が全くありません。文化人類学的に外から眺めた「イスラーム」ではなく、イスラーム内部のロジックをそのまま日語で語っている、という、類書のない一冊です。最初に読んだ時はかなりインパクトを受けました(現在は絶版で手に入りにくくなっています)。 この『イスラーム 生と死と聖戦』は、『イスラームのロジック』が一周回って更に平易になって帰ってきたようなです。これ以上ないくらい平易で、まるで子供に話しかけるような優しい口調ですが、全く「文化人類学

    mfluder
    mfluder 2015/02/25
    "アニミズムとイスラームなどというと、一般の方の印象としてはまるで正反対のようですが、中田先生は「イスラームの世界観は基本的にアニミズム」と語ります"
  • 因果応報と「信じる」こと、割りと真面目なアホが一番幸せ

    人のある行い(大抵はネガティヴな行為)について、「そうした行いをするなら、他人が同じことをあなたに行っても文句は言えない」と言う人がいます。例えば、約束をすぐ破る人がいたとして、「そんなに約束を守らないようなら、他人があなたの約束を破っても文句は言えない」といった具合です。 しかしこれはよく考えると少し奇妙な話で、泥棒だって自分のものを盗まれたら悔しいでしょう。いくら悪いことをしていても、他人から同じ悪いことをされて何も感じない、ということはないでしょうし、文句の一つくらい言うでしょう。それはそれ、これはこれです。 当たり前ですが、悪い行いをしたからといって悪い行いが必ず返ってくる訳ではないし、良い行いをしても良い行いが返ってくるとは限りません。 もちろん、実際上は、結果的に「因果応報」的な現象がある程度成り立つことはあるでしょう。特に狭いコミュニティなどでは、良くも悪くも評判がすぐ共有さ

    因果応報と「信じる」こと、割りと真面目なアホが一番幸せ
  • 『日亜対訳クルアーン』中田考、日本ムスリム協会クルアーンとの比較など

    『日亜対訳クルアーン』中田考、日本ムスリム協会クルアーンとの比較など
  • 選ばないことでは無宗教にはなれない

    以下のメモは、宗教に無関心な人ばかりでなく、信仰のある方、イスラームの内部にいる方にも、不快感を与える可能性があります。少なくとも、極普通の信徒が集まる場で、わたしはこのような発言を控えます。ですから、当に限られた方に対してちょっと甘えて音を書いている、という前提で眺めてやって下さい。 わたしはイスラームの信徒ですが、おそらく質的には、「完全な無神論者」になりたい(なりたかった)のです。 かなりメチャクチャなことを言っています。 まず大前提として、多くの日人、正確に言えば一定の教養がある日人たちにとっての宗教、というものを考えてみます。彼らの多くは、宗教A、宗教B、宗教Cというものが「対象」として並んでいる、という見方をするでしょう。だから宗教を「選ぶ」と考えます。逆に言えば、何も選ばなければ、デフォルトで「無宗教」になる、そんな風に考えているのではないでしょうか。 しかし、「放

    選ばないことでは無宗教にはなれない
    mfluder
    mfluder 2013/02/05
    "「宗教」は言語に織り込まれていて、その言語は常に政治的であり、「わたし」が言語的存在として振り向いた瞬間から、わたしたちは十分「宗教的」です"
  • 「信仰が無いことにいまさら苦しむ」について

    信仰について、気になる文章を見かけました。 信仰が無いことにいまさら苦しむ 当然だれしもひとりでは生きることはできない。私自身も当にひとりで生きていたいのかというと、それは嘘だと思う。そうであるならば増田に文章を書くこと自体が矛盾した行為だ。ただ単に、人を信頼して交流する力が衰弱しているだけなのだと思う。そしてそう思うからこそ、わたしはキリスト教者、もしくは他の宗教者に憧れを感じる。 (・・・) そんなに言うのならキリスト教徒になればいいのではないのかとお思いかもしれないが、そうはいかない。 なぜなら自分の精神的な支柱は無神論にあるからである。高校生の頃、カミュ『ペスト』に触れて、神への信仰は災害や疫病などの不条理に対して無力であるどころかそれを恵みと呼ぶような危険性のあることに気づいたからである。いまもってしてこのの影響力は大きく、時折目を通しては線を引くことを繰り返している。 私は

    「信仰が無いことにいまさら苦しむ」について
    mfluder
    mfluder 2013/02/05
    あとでじっくり読む
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