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駆逐艦に関するmforce4のブックマーク (217)

  • 日本の駆逐艦:島風型

    計画経緯 型は、「陽炎型」「夕雲型」が「甲型駆逐艦」と、「秋月型」が「乙型駆逐艦」と呼ばれるのに対して、「丙型駆逐艦」と呼ばれました。 軍令部は、米太平洋艦隊との艦隊決戦において、水雷戦隊による襲撃を重視していた為、艦隊型駆逐艦の整備に躍起になっていました。 日の駆逐艦に求められる最も重要な能力は、この軍令部の要求から察することが出来ます。 それは、重雷装であることでした。 このコンセプトに基づいて、日海軍は着々と艦隊型駆逐艦を整備して来ました。 まずは「朝潮型」が建造され、続いて「陽炎型」「夕雲型」の「甲型駆逐艦」が完成します。 これら一連の艦隊型駆逐艦は、世界最強の重雷装駆逐艦として完成し、日海軍の艦隊決戦思想の一翼を担うに足る、極めて優秀な駆逐艦でした。 もちろん海軍は彼女たちの出来に非常に満足し、その性能に絶大な信頼を寄せていました。 しかし、非の打ち所がなかった訳ではあり

  • 菫 (橘型駆逐艦) - Wikipedia

    40口径12.7cm単装高角砲 1基 40口径12.7cm連装高角砲 1基 25mm連装機銃 4基 25mm単装機銃 12基 61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし) 九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2(二式爆雷 36発) 四式水中聴音機 菫(すみれ)は日海軍の駆逐艦。仮称5520号艦、橘型(改松型)駆逐艦6番艦として横須賀海軍工廠で建造された。 艦名は植物の菫による。艦名としては樅型駆逐艦の18番艦「菫」に続いて2代目。 艦歴[編集] 竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。二番高角砲に不具合があって修理を受け[2]、瀬戸内海に向かう。やがて、第十一水雷戦隊は瀬戸内海への機雷投下を避けて日海側に移動することとなる。5月27日に舞鶴に到着するも、舞鶴鎮守府から「空襲の際に刺激となる」との理由で、舞鶴以外の場所へ移動するよう要請を受け

    菫 (橘型駆逐艦) - Wikipedia
  • 涼月 (駆逐艦) - Wikipedia

    涼月[4](すずつき)は、日海軍の駆逐艦[5]。 秋月型駆逐艦の3番艦である[6]。 太平洋戦争末期には涼月型という表記も見られた[7]。 艦名は片桐大自の研究によれば「さわやかに澄みきった秋の月」[8]。 凉月という表記も見られるが[9][10][11]、公文書上「涼月」と命名されており[4]「凉月」への改名や訂正の記録は存在しない。艦名はあきづき型護衛艦「すずつき」に継承された。 一等駆逐艦涼月(すずつき)は、1942年(昭和17年)12月下旬に三菱長崎造船所で竣工した秋月型駆逐艦の3番艦[5][6]。 1943年(昭和18年)1月15日、第十戦隊麾下の第61駆逐隊に編入[5][12]。姉妹艦初月[13]や若月(8月15日附で第61駆逐隊編入)[14][15]等と共に、輸送作戦や護衛任務に従事した[5][16]。 1944年(昭和19年)1月16日[5]、ウェーク島へ向かう特設巡洋艦

    涼月 (駆逐艦) - Wikipedia
  • 涼風 (駆逐艦) - Wikipedia

    涼風(すずかぜ)は、日海軍の駆逐艦[2]。白露型の10番艦(海風型4番艦)である[3]。第二次軍備補充計画(②計画)では海風型(改白露型)を14隻建造の予定であったが、軍縮条約脱退もあり「涼風」で建造を打ち切り、残りは設計を改め朝潮型として完成した。 艦歴[編集] 太平洋戦争以前[編集] 1935年(昭和10年)6月20日、日海軍は浦賀船渠で建造予定の駆逐艦を「涼風」、三井造船の鴻型水雷艇を「雉」、浅野造船所の駆潜艇を「第三号駆潜艇」と命名した[2][4]。同日附で2隻(涼風、雉)は艦艇類別等級表に登録される[5]。 同年7月9日、「涼風」は浦賀船渠で起工[6][7]。 当時の浦賀船渠では白露型2番艦「時雨」が竣工に向け艤装中(同年5月18日進水)[8]。白露型6番艦「五月雨」が涼風起工3日前の7月6日に進水[9][10]。白露型8番艦「山風」が同年5月25日に起工していた[11]。

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    mforce4
    mforce4 2012/11/06
    すずかぜ,白露(しらつゆ)型-10番艦
  • 杉 (松型駆逐艦) - Wikipedia

    40口径12.7cm単装高角砲 1基40口径12.7cm連装高角砲 1基25mm連装機銃 4基25mm単装機銃×12基61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし)九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2(二式爆雷×36発) 杉(すぎ)は、日海軍が大東亜戦争(太平洋戦争)で運用した駆逐艦[2]。松型駆逐艦の7番艦[3]。艦名としては樺型駆逐艦[4]の9番艦「杉」[5]に続いて2代目。 概要[編集] 一等駆逐艦杉(すぎ)は、帝国海軍が藤永田造船所で建造した駆逐艦で[6]、1944年(昭和19年)8月25日に竣工した[7]。訓練部隊の水雷戦隊#第十一水雷戦隊に編入され[8]、内海西部で訓練をおこなう。 捷一号作戦発動により小沢機動部隊に編入される[注 1]。 10月20日に内海西部を出撃したが[10]、燃料不足のため僚艦「桐」と共に離脱し[11]、10月25日の対空戦闘には参加して

  • 白雪 (吹雪型駆逐艦) - Wikipedia

    白雪(しらゆき)は、大日帝国海軍の駆逐艦[1]。特型駆逐艦こと一等駆逐艦吹雪型(白雪型・初雪型)の2番艦[2]。 雪級(ゆきクラス)の1隻[3][4]。 当初の艦名は第三十六号駆逐艦[1]。白雪の名を持つ日海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「白雪」に続いて2隻目。名称ははつゆき型護衛艦(現:しまゆき型練習艦)2番艦「しらゆき」に受け継がれている。 艦歴[編集] 駆逐艦白雪は横浜船渠で建造された[5]。1927年(昭和2年)3月19日に起工[5]。4月26日、建造予定の一等駆逐艦4隻に、それぞれ第36号駆逐艦(のちの白雪)、第38号(〃深雪)、第39号(〃叢雲)、第44号(〃浦波)の艦名が与えられた[6]。第36号駆逐艦の艦名は浦風型駆逐艦江風(第36号駆逐艦)に使われた事がある[7][8]。 艦は1928年(昭和3年)3月20日に進水[5]。同年8月1日、第36号駆逐艦を白雪と

    白雪 (吹雪型駆逐艦) - Wikipedia
  • 白露 (白露型駆逐艦) - Wikipedia

    艦名[編集] 艦は一等駆逐艦白露型の1番艦である[3]。この名を持つ日海軍の艦船としては神風型駆逐艦 (初代)「白露」に続いて2隻目。『白露』とは露の美称の事で、小倉百人一首第37番には文屋朝康の作として「白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」が収められている[4]。 艦歴[編集] 「初春型駆逐艦」は当初12隻が建造される予定であったが、復元性能不良が判明し、設計を変更した艦型が有明型駆逐艦である[5]。「白露」は佐世保工廠で1933年(昭和8年)11月14日に起工[6]。同年12月15日、初春型駆逐艦「有明、夕暮」は初春型から除かれ、『一等駆逐艦有明型』が登録された[7]。同日附で建造中の有明型3隻に対しそれぞれ「白露(シラツユ)」、「時雨(シグレ)」「村雨(ムラサメ)」の艦名が与えられる[1]。1934年(昭和9年)11月19日、有明型駆逐艦は登録を抹消され

    白露 (白露型駆逐艦) - Wikipedia
  • 白雲 (吹雪型駆逐艦) - Wikipedia

    白雲(しらくも)は[1]、日海軍の駆逐艦[2]。吹雪型駆逐艦の8番艦[3]。日海軍の艦船名としては1902年(明治35年)竣工の白雲型駆逐艦白雲に続いて2隻目。 概要[編集] 駆逐艦白雲(しらくも)は、日海軍の駆逐艦[4]。吹雪型駆逐艦の8番艦。吹雪型の5番艦から8番艦までは艦名に「雲」が含まれるため、雲級(くもクラス)と呼称されることもある[注釈 1]。 1928年(昭和3年)7月28日の竣工時は第42号駆逐艦だったが、8月1日に「白雲」と改名された[2]。 太平洋戦争開戦時、引き続き第三水雷戦隊麾下の第12駆逐隊に所属し[注釈 2]、南方作戦にともなうマレー作戦や蘭印作戦に従事した[注釈 3]。 1942年(昭和17年)3月1日、バタビア沖海戦に参加した[2]。3月10日に第12駆逐隊が解隊され、「白雲」は第20駆逐隊に編入された[注釈 4]。 20駆はベンガル湾機動作戦[4]、

    白雲 (吹雪型駆逐艦) - Wikipedia
  • 霜月 (駆逐艦) - Wikipedia

    65口径10cm連装高角砲 4基8門 九六式25mm機銃 3連装5基 同単装14挺 61cm4連装魚雷発射管 1基4門 (九三式魚雷8) 九四式爆雷投射器2基 爆雷投下軌条2条 九五式爆雷 54個 霜月(しもつき)は[5]、日海軍の駆逐艦[6]。 概要[編集] 一等駆逐艦霜月は[6]秋月型駆逐艦の7番艦である[7]。艦名は陰暦11月の雅称[8]。三菱重工業長崎造船所において、1942年(昭和17年)7月から建造が始まった[9]。 艦建造中の1943年(昭和18年)7月上旬、船体前部を失ったネームシップの秋月[10]が長崎港に到着する[11][12]。同艦の修理を急ぐため、建造中の霜月の艦首を秋月に移植した結果[13]、霜月の完成は1944年(昭和19年)3月31日となった[14]。 竣工後、霜月は訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入され訓練に従事[15]。その後、駆逐隊に所属しないまま小沢

  • 島風 (峯風型駆逐艦) - Wikipedia

    駆逐艦時 45口径三年式12cm砲 4門 三年式機銃 2挺 53.3cm連装魚雷発射管 3基 (魚雷8) 一号機雷 16個 哨戒艇時 45口径三年式12cm砲 2門 九六式25mm機銃 連装3基、単装4挺 爆雷 18個 島風(しまかぜ)は、日海軍の駆逐艦。峯風型駆逐艦の4番艦である。日の駆逐艦として公試運転時に40.698ノットの新記録を出したことで知られる。1940年に哨戒艇に改造され第一号哨戒艇(だいいちごうしょうかいてい、旧字体:第一號哨戒艇)と改名し、艦名は2代「島風」に引き継がれた。「島風」の名は「島に吹く風」または「島より吹き来る風」[1]に由来する。 艦歴[編集] 舞鶴海軍工廠で建造。一等駆逐艦に類別され、横須賀鎮守府籍に編入。竣工後直ちに第3駆逐隊に編入された。 1928年(昭和3年)10月11日午後9時20分、浦賀水道において、小演習に参加していた「島風」に僚艦「夕

    島風 (峯風型駆逐艦) - Wikipedia
  • 東雲 (吹雪型駆逐艦) - Wikipedia

    東雲(しののめ)は、日海軍の吹雪型駆逐艦6番艦[2][3] 佐世保海軍工廠で建造[注 1][注 2]。 当初の艦名は第40号駆逐艦で、竣工直後の1928年(昭和3年)8月1日付で「東雲」と改名された[5]。 日海軍の艦名では東雲型駆逐艦の「東雲」[6][7]に続いて2隻目である[8]。吹雪型5-8番艦は艦名に「雲」を持つため雲級とも呼ばれた[9]。 第三水雷戦隊麾下の第12駆逐隊に所属し[10]、太平洋戦争緒戦の南方作戦にともなうマレー作戦に従事する[11]。開戦からわずか9日後の1941年(昭和16年)12月17日にボルネオ島北方ミリ沖で[12]、オランダ軍の空襲により沈没した[13][14]。 吹雪型駆逐艦としては太平洋戦争で初の戦没艦となった[注 3]。 艦歴[編集] 太平洋戦争開戦まで[編集] 1926年(大正15年)6月25日、 佐世保海軍工廠で建造予定の一等駆逐艦に第40号

    東雲 (吹雪型駆逐艦) - Wikipedia
  • 時雨 (白露型駆逐艦) - Wikipedia

    時雨(しぐれ)は、日海軍の白露型駆逐艦2番艦である[4]。日海軍の艦船名としては1906年(明治39年)竣工の神風型駆逐艦 (初代)・時雨に続いて2隻目。第二次上海事変・珊瑚海海戦、ミッドウェー海戦、第三次ソロモン海戦、ベラ湾夜戦、第一次・第二次ベララベラ海戦、ニュージョージア島の戦い、ブーゲンビル島沖海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などを歴戦。『呉の雪風、佐世保の時雨』と呼ばれ、海軍史研究者で米元海軍少将サミュエル・モリソンは自著で時雨を「幸運艦」「不滅艦」と記した[5]。1945年(昭和20年)1月24日、輸送船護衛中にマレー半島近海で米潜水艦に撃沈された。 艦歴[編集] 白露型駆逐艦2番艦・時雨は、旧式化した峯風型駆逐艦羽風、島風の代艦として建造された[1]。 浦賀船渠で1933年(昭和8年)12月9日に起工[6]。12月15日、建造中の駆逐艦3隻にそれぞれ白露(シラツユ)、時

    時雨 (白露型駆逐艦) - Wikipedia
  • 敷波 (吹雪型駆逐艦) - Wikipedia

    藤田類太郎 中佐:1929年11月1日 - 1931年12月1日 池田久雄 中佐:1931年12月1日 - 1932年11月15日 同日より予備艦 (兼)河原金之輔 中佐:1932年11月15日[8] - 1932年12月1日[9] 中原達平 中佐:1932年12月1日[9] - 1933年11月15日[10] 直塚八郎 中佐:1933年11月15日 - 1934年1月10日[11] (兼)古木百蔵 中佐:1934年1月10日[11] - 1934年4月28日[12] 伊崎俊二 少佐:1934年4月28日[13][12] - 1934年11月15日[14] 佐藤康夫 少佐:1934年11月15日 - 1936年12月1日 天野重隆 中佐:1936年12月1日 - 1937年11月15日[15] 折田常雄 少佐:1937年11月15日 - 1938年10月5日[16] ※1937年12月1日

    敷波 (吹雪型駆逐艦) - Wikipedia
  • 汐風 (駆逐艦) - Wikipedia

    新造時 45口径三年式単装砲 4門 6.5mm単装機銃 2挺 53.3cm連装魚雷発射管 3基6門 (魚雷8) 一号機雷 16個 最終時 45口径三年式12cm単装砲 1門 九六式25mm連装機銃 6基12門 13mm単装機銃 8挺 回天 4基 汐風(しおかぜ/しほかぜ)は、日海軍の駆逐艦。峯風型の8番艦である。艦名は海上や海岸近くで吹く塩気を含んだ風を意味するとされるが、1928年(昭和3年)の資料では「海より吹き来る風」が由来とされている[1]。 艦歴[編集] 1917年、大正6年度計画(八四艦隊案)により計画され、舞鶴海軍工廠で、1920年5月15日に起工。1920年10月22日に進水。1921年7月29日に竣工した。竣工と同時に一等駆逐艦に類別され、横須賀鎮守府籍となる。 12月5日、第3駆逐隊に編入。 1922年12月1日、第3駆逐隊は、第二艦隊第二水雷戦隊指揮下となる。 1

    汐風 (駆逐艦) - Wikipedia
  • 椎 (駆逐艦) - Wikipedia

    40口径12.7cm単装高角砲 1基 40口径12.7cm連装高角砲 1基 25mm連装機銃 4基 25mm単装機銃 12基 61cm4連装九二式魚雷発射管 1基4門(予備魚雷なし) 九四式爆雷投射機 2基、爆雷投下軌条×2、(二式爆雷 36発) 四式水中聴音機 椎(しい)は日海軍の駆逐艦。仮称4811号艦、橘型(改松型)駆逐艦として舞鶴海軍工廠で建造された。 艦名は植物の椎による。この艦名を持つ最初の艦船である。 艦歴[編集] 1944年(昭和19年)9月18日に舞鶴海軍工廠で起工、1945年(昭和20年)1月13日に進水し、3月13日に竣工した。 竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海西部に回航され、回航当時は健在だった戦艦「大和」の姿に圧倒されたり[2]、発電機の不良[3]や搭載した重油に塵埃が混入する[4]などのトラブルがありながらも訓練

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  • 皐月 (戦利駆逐艦) - Wikipedia

    皐月(さつき)は、かつて大日帝国海軍に所属した駆逐艦である。日露戦争時にロシアから鹵獲した戦利艦であり、元はブイヌイ級駆逐艦のベドーヴイであった。艦名は睦月型駆逐艦「皐月」に引継がれた。 艦歴[編集] ロシア時代[編集] ロシア・ペテルブルクにあるネヴスキー造船所で1903年(明治36年)、竣工。 1905年(明治38年)5月28日、日海海戦で降伏し、捕獲される。 日時代[編集] 1905年6月6日、「皐月」と命名され、12月12日に駆逐艦籍に編入。 1906年、浦賀船渠で整備完了。 1913年(大正2年)4月1日除籍[1]。 1914年(大正3年)8月23日、雑役船(掃海船)「皐月丸」となる。第一次世界大戦では青島攻略戦に参加。 1916年(大正5年)3月31日に標的船となる。 1921年(大正10年)廃船。 艦長[編集] ※『官報』に基づく。 日海軍 駆逐艦長 水科三十郎 少佐

    皐月 (戦利駆逐艦) - Wikipedia
    mforce4
    mforce4 2012/11/03
    同型艦-なし,戦利艦-ロシア
  • 早蕨 (駆逐艦) - Wikipedia

    早蕨(さわらび)は、日海軍の駆逐艦。若竹型駆逐艦の4番艦である。 艦歴[編集] 1923年(大正12年)9月1日 - 進水(浦賀船渠建造)。進水時の名称は「第八駆逐艦」。 1924年(大正13年)4月1日 - 「第八号駆逐艦」に艦名変更。 7月24日 - 竣工 1928年(昭和3年)8月1日 - 「早蕨」に艦名変更。 1932年(昭和7年) 12月5日 - 台湾海峡基隆北方120浬(推定)で沈没。竣工以来の上部重量増加による復元性悪化を原因とする転覆事故と推定された。 沈没事故[編集] 1932年12月3日、早苗、早蕨、呉竹、若竹の駆逐艦四隻で台湾の馬公へ向け呉港を出航。同年12月5日、富基角の北約100浬の海上で暴風雨に遭遇して煙突から浸水して機関が停止、航行不能に陥り転覆したものと推定されている。同行した駆逐艦のほか、馬公より巡洋艦北上、五十鈴も出動して救助にあたったが、当日中に救助

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  • 沢風 (駆逐艦) - Wikipedia

    沢風(旧字体:澤風、さわかぜ/さはかぜ)は、日海軍の駆逐艦。峯風型駆逐艦の2番艦。艦名表記は命名された際の「澤風」表記を固有名詞として用いられることが多い[1] [2] [注釈 1]。頁では「沢風」表記とし記載する。艦名は「沢に吹く風」に由来する[3]。 この艦名は海上自衛隊の第5代護衛艦隊旗艦[4]であり、護衛艦隊旗艦および直轄艦の廃止にともない事実上護衛艦隊最後の旗艦を務めたたちかぜ型護衛艦 3番艦「さわかぜ」に継承された。 また、計画上は峯風型の2番艦とされるが、1番艦「峯風」よりも早く起工、進水および竣工をしているため沢風型駆逐艦(澤風型)[5][6][7][8][9]とも呼ばれ第二次世界大戦に参加し、日海軍が運用した一等駆逐艦は艦が最古参である。[10][注釈 2] [注釈 3]大戦中に練習駆逐艦や対潜実験艦、訓練目標艦などの多種多様な用途でも運用されたが、駆逐艦籍から転

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  • 五月雨 (駆逐艦) - Wikipedia

    五月雨(さみだれ)は、日海軍の駆逐艦。白露型駆逐艦の6番艦である[1]。艦名は海上自衛隊のむらさめ型護衛艦6番艦「さみだれ」に継承された。 概要[編集] 一等駆逐艦五月雨(さみだれ)は、日海軍が浦賀船渠で1934年(昭和9年)12月から1937年(昭和12年)1月末にかけて建造した駆逐艦[2][3]。白露型駆逐艦の6番艦[1]。 1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時、白露型4隻(村雨、五月雨、夕立、春雨)[1]は引続き第2駆逐隊を編成し、第四水雷戦隊(旗艦那珂)に所属[3][4]。南方作戦(フィリピン攻略戦、蘭印作戦)に従事する[5]。同方面作戦従事中、第2駆逐隊は1942年(昭和17年)1月下旬のバリクパパン沖海戦や2月下旬のスラバヤ沖海戦に参加した[4][5]。 南方作戦成功後、同年5月下旬から6月上旬のミッドウェー作戦における第2駆逐隊は、第二艦隊司令長官近藤信竹

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  • 早苗 (駆逐艦) - Wikipedia

    早苗(さなえ/さなへ)は、日海軍の駆逐艦。若竹型の3番艦である。 艦歴[編集] 浦賀船渠にて建造され、1923年11月5日に竣工した。当初は第六駆逐艦という艦名であり、1924年4月1日に「第六号駆逐艦」、1928年8月1日に「早苗」へと改名された。 1932年(昭和7年)12月3日、早苗のほか早蕨、呉竹、若竹の駆逐艦四隻で台湾の馬公へ向け呉港を出航。同年12月5日、暴風雨により早蕨が沈没。乗組員の救助を行う[1]。 1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が開戦すると、主に船団護衛に従事した。1943年(昭和18年)11月15日、船団護衛のためパラオを出港し ボルネオ島のバリックパパンへ向かったが、セレベス海へ入り、見張り交替の直後の11月18日の深夜、船体の中央付近へ雷撃を受け、さらに 2の魚雷が早苗に命中。合計3の雷撃をうけた。同日23時46分、北緯4度52分、東経122度7

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