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駆逐艦に関するmforce4のブックマーク (217)

  • 雷型駆逐艦 - Wikipedia

    雷型駆逐艦(いかづちがたくちくかん)は、大日帝国海軍が初めて運用した駆逐艦の艦級。第一期拡張計画に基づき、イギリス海軍B級駆逐艦の準同型艦として、明治29年・30年度計画でイギリスのヤーロー社に6隻が発注された。1899年より順次に就役し、日露戦争でも活躍した[7]。 型は、ヤーロー社がアルゼンチン海軍向けに建造していた「コリエンテス」(ARA Corrientes)を発展させるかたちで設計されており[8]、イギリス海軍のB級駆逐艦の準同型艦とされている[7]。船型は同型と同じく乾舷の低い平甲板型とされ、艦首が波浪に突っ込んだときに海水をすくい上げないように、水はけの良い亀甲型(タートルバック)とされたのも同様である[9]。 ボイラーはヤーロウ式の石炭専焼式水管ボイラーで、蒸気は飽和蒸気でで、圧力17.6 kgf/cm2 (250 lbf/in2)だった。主機は3段膨張4気筒レシプロ蒸

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  • 雷 (雷型駆逐艦) - Wikipedia

    雷(いかづち)は、大日帝国海軍の駆逐艦[4] 。 艦名は「カミナリ」または「ナルカミ」の意味[4] 。 同名艦に吹雪型駆逐艦(「特III型、暁型」)の「雷」がある為、こちらは「雷 (初代)」や「雷I」などと表記される。 艦歴[編集] 建造[編集] 1897年(明治30年)1月16日にイギリスのヤーロー社と第1回目の駆逐艦建造契約を締結、「雷」はそのうちの1隻になる[2][9]。 同年9月に起工[10]、 1898年(明治31年)3月16日建造中の「第一號水雷艇驅逐艇」を「雷(イカヅチ)」と命名[22]、 3月21日に軍艦及水雷艇類別等級が定められ、「雷」は水雷艇駆逐艇に定められた[3]。 11月15日進水[11]、 1899年(明治32年)2月23日竣工[2]、 引き渡された[12]。 日回航[編集] 当初、分解した上で日まで輸送も検討されたが、完成させて自力で回航になった。 3月8

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  • 有明 (初春型駆逐艦) - Wikipedia

    有明(ありあけ)は[1]、日海軍の駆逐艦[2]。初春型駆逐艦の5番艦である[3]。日海軍の艦船名としては1905年(明治38年)竣工の春雨型駆逐艦・有明に次いで2代目。 概要[編集] 一等駆逐艦有明(ありあけ)は、日海軍が神戸川崎造船所で建造した駆逐艦[4]。 初春型駆逐艦の5番艦だが[3]、有明型駆逐艦に類別されていた時期もある[5][6]。 1935年(昭和10年)3月25日、竣工[4]。 1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時、引き続き第一水雷戦隊隷下の第27駆逐隊(有明、夕暮、白露、時雨)を編制していた[2]。1942年(昭和17年)1月中旬以降、第二航空戦隊と共にアンボンやケンダリ攻略作戦を支援した[2]。5月上旬、五航戦と共に珊瑚海海戦を戦う[4]。6月上旬、ミッドウェー作戦(主力部隊護衛)に従事する[2]。 7月以降、第27駆逐隊は第四水雷戦隊に転籍した[7]

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  • 初春型駆逐艦 - Wikipedia

    初春型駆逐艦(はつはるがたくちくかん)は大日帝国海軍(以下「海軍」)の一等駆逐艦[2] の艦級である。吹雪型(特型)駆逐艦の次の艦隊型駆逐艦として計画されたが、小排水量に過大な武装を盛り込んだ型は復元性能や船体強度に問題を生じ、建造は6隻で中止された[12]。 なお、建造途中で設計変更を行って竣工した有明と夕暮は、有明型駆逐艦(ありあけがたくちくかん)に類別されていた時期があった。 1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議の結果、補助艦の保有量も制限され(駆逐艦で英米10対日7)、駆逐艦には「1,500トンを超える艦は、合計排水量の16パーセント以内」と言う項目があった[13]。このため、当時主力として建造していた特型のさらなる建造が不可能になった[12]。また、大型駆逐艦の建艦競争が起きることを恐れ、それ以上の建造を差し控えたという状況でもあった[12]。そこで海軍では、特型(

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  • 霰 (朝潮型駆逐艦) - Wikipedia

    50口径12.7cm連装砲 3基6門 25mm機銃 II×2 (または13mm機銃 II×2) 61cm4連装魚雷発射管 2基8門 (九〇式魚雷16) 九一式爆雷×36 霰(あられ)は、大日帝国海軍の駆逐艦[1]。一等駆逐艦朝潮型の10番艦(最終艦)である[2]。この名を持つ帝国海軍の艦船としては春雨型駆逐艦「霰」に続き2隻目。朝潮型は速力と航続距離の性能不足の面から霰をもって建造が打ち切られ、以降は新設計の陽炎型駆逐艦が建造された。 1936年(昭和11年)12月14日、海軍省は建造予定の水上機母艦2隻に千代田と瑞穂、朝潮型駆逐艦2隻に峯雲と霰の艦名を与える[1]。舞鶴海軍工廠で建造された朝潮型は、2番艦大潮と霰のみである。霰は1937年(昭和12年)3月5日に起工[3]。同年11月16日に進水[3][4]。空母飛龍と同日附の進水である[4]。 1938年(昭和13年)3月15日、吹

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  • 荒潮 (駆逐艦) - Wikipedia

    2月上旬、ガダルカナル島撤収作戦(ケ号作戦)が実行され、第8駆逐隊(大潮、荒潮)は3回とも従事した。2月14日、第8駆逐隊司令は佐藤康夫大佐に交代した[68]。20日、大潮が輸送船団護衛中にマヌス島沖で米潜アルバコアの雷撃を受け、航行不能になった[69][70]。荒潮はトラック泊地まで大潮の曳航を試みたが[71]、21日朝に大潮の船体が中央で断裂し沈没した[72][73][74]。荒潮は乗員を救助してラバウルに帰投した[75]。 沈没[編集] 第三水雷戦隊司令官木村昌福少将指揮下でラエ輸送作戦(第八十一号作戦)が行われ、駆逐艦8隻(白雪、浦波、敷波、朝潮、荒潮、朝雲、雪風、時津風)で輸送船8隻を護衛し、2月28日深夜にラバウルを出撃した[76][77]。3月2日の空襲で、輸送船旭盛丸が沈没した。朝雲、雪風が乗員を救助し、先にラエへ輸送してから護衛に戻ったが、3日にクレチン岬南東沖で再び米豪

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  • 嵐 (駆逐艦) - Wikipedia

    嵐(あらし)は、日海軍の駆逐艦[1][2]。 一等駆逐艦陽炎型の16番艦である[3]。太平洋戦争緒戦時は第4駆逐隊司令駆逐艦として同駆逐隊隊司令有賀幸作大佐(戦艦大和沈没時艦長)が乗艦、ミッドウェー海戦では空母赤城を雷撃で処分した。1943年(昭和18年)8月上旬のベラ湾夜戦で萩風、江風と共に戦没した。 仮称第112号艦として舞鶴海軍工廠で1939年(昭和14年)5月4日起工[4]。舞鶴海軍工廠で建造された陽炎型は嵐以外に4隻(陽炎、親潮、天津風、野分)が存在する。1940年(昭和15年)2月23日、陽炎型17番艦萩風と同日附で命名された[1]。同年4月22日進水[4]。登録上は舞鶴工廠で建造された姉妹艦野分が陽炎型15番艦で嵐が16番艦だが[3]、起工・進水・竣工のいずれも野分より嵐の方が早い[5]。 同年9月16日附で朝潮型駆逐艦2番艦大潮駆逐艦長渡邉保正中佐は嵐の艤装員長に任命され

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  • 神風型駆逐艦 (初代) - Wikipedia

    春雨艦型図。神風型はほぼ同一艦型。 神風型駆逐艦(かみかぜかたくちくかん、英語: Kamikaze-class destroyers)は、大日帝国海軍が保有した駆逐艦の艦級[2]。 型が竣工した当時の日海軍は、『○○型』等の『艦型』を書類上規定しておらず、艦艇類別等級表の改訂により、1926年(大正15年)12月1日附で正式に白露型駆逐艦(しらつゆがたくちくかん)と類別された[3]。 1928年(昭和3年)4月1日附で当時ネームシップの「白露」が除籍され[4]、同年8月1日附で第一号型駆逐艦が神風型駆逐艦と命名された[5][6]。 1番艦(潮)の就役開始は1905年(明治38年)7月15日[7]。退役完了は1930年(昭和5年)6月1日。 最初に国産化された春雨型駆逐艦の改良型として1904年(明治37年)に建造が開始された。改良型とはいえ、基設計は同じ国産の春雨型とほぼ同等であり

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  • 綾波 (初代神風型駆逐艦) - Wikipedia

    綾波(あやなみ)は、大日帝国海軍の駆逐艦。神風型駆逐艦(初代)の32番(最終)艦である。艦名は重なりあって寄せる波から由来する。 「綾波」の名を受け継いだ日の艦艇としては吹雪型駆逐艦「綾波」、あやなみ型護衛艦「DD-103 あやなみ」がある。 艦歴[編集] 舞鶴海軍工廠で1908年(明治41年)5月15日に起工され、翌年6月26日竣工した。1924年(大正13年)に掃海艇(第9号掃海艇)に変更され、1930年(昭和5年)には雑役船(交通船兼曳船・公称第757号)となっている。1933年(昭和8年)4月19日に廃船。 艦長等[編集] ※『官報』に基づく。階級は就任時のもの。 駆逐艦長 松下惣吉 大尉:1909年6月1日 - 10月11日 *兼舞鶴海軍工廠艤装員(-1909年7月9日) 大谷喜雄 大尉:1909年10月11日 - 1911年5月23日 藤田三他人 大尉:1911年5月23日

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  • 綾波 (吹雪型駆逐艦) - Wikipedia

    第3次ソロモン海戦第2夜戦図、初期配置。サボ島の位置と矢印位置が若干ずれている。来はBとCの間にサボ島がある。 第3次ソロモン海戦第2夜戦図、第2段階。Aがワシントン、大きな点線がサウスダコタ、小さな点線がグウィンとベンハムの航路。「1」がウォークとプレストン沈没地点。Bが綾波で「2」が沈没地点。Cが第三水雷戦隊(川内、敷波、浦波)、Dが第十戦隊(長良、五月雨、電、初雪、白雪)、Eが射撃隊(愛宕、高雄、霧島、照月、朝雲)の航跡。「3」が霧島沈没地点。 綾波(あやなみ)は大日帝国海軍の駆逐艦[1]。特型駆逐艦(吹雪型)の11番艦。艦名は重なりあって寄せる波から由来し、この名を受け継いだ日の艦艇としては神風型駆逐艦 (初代)「綾波」に続き2代目にあたる。 1942年(昭和17年)11月14日の第三次ソロモン海戦(第二夜戦)で活躍したが、新鋭戦艦「ワシントン」などの艦砲射撃により撃沈された

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  • 天津風 (陽炎型駆逐艦) - Wikipedia

    天津風(あまつかぜ)は、大日帝国海軍の駆逐艦[1]。 艦名は初代天津風の襲用[2]。意味は「天を吹く風」[3]。 概要[編集] 一等駆逐艦天津風(あまつかぜ)は、日海軍が舞鶴海軍工廠で1939年(昭和14年)2月から1940年(昭和15年)10月にかけて建造した陽炎型駆逐艦[4][5]。 日海軍の駆逐艦としては、初代「天津風」(天津風型駆逐艦)[2][6]に続いて2代目。 艦は、陽炎型駆逐艦の9番艦である[7][8]。天津風のみ次世代型駆逐艦島風用の試作機関を搭載していた[9]。 竣工後、第16駆逐隊に所属[10]。太平洋戦争開戦以後、同駆逐隊の陽炎型4隻(初風[11]、雪風[12]、天津風[5]、時津風[13])は南方作戦(フィリピン攻略戦、蘭印作戦、スラバヤ沖海戦)、クリスマス島攻略作戦(天津風のみ)、ミッドウェー海戦(輸送船団護衛)、第二次ソロモン海戦等、数々の海戦に参加[1

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  • 天霧 (駆逐艦) - Wikipedia

    天霧(あまぎり)は日海軍の吹雪型駆逐艦13番艦[2]。15番艦とする資料もある[3]。吹雪型のII型[4]で、 1930年(昭和5年)11月に竣工した。1943年(昭和18年)8月、後の米大統領ジョン・F・ケネディが艇長を務めた魚雷艇PT-109と衝突、沈没させた[5]。ソロモン海で多数の輸送作戦に参加し激戦を生き抜いたが、1944年(昭和19年)4月にマカッサル海峡で触雷して沈没した。 1928年(昭和3年)9月11日、建造予定の吹雪型駆逐艦2隻に天霧と朝霧の艦名が与えられ[6][7]、艦艇類別等級表に類別された[8]。天霧は東京石川島造船所で11月28日に起工[1]。1930年(昭和5年)2月27日に進水し[9][1]、11月10日に竣工した[1]。12月1日、天霧と朝霧 [3]で第8駆逐隊(横須賀鎮守府籍)が編成された[10]。 太平洋戦争開戦前の天霧 12月3日に夕霧 [11]、

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  • 朝凪 (駆逐艦) - Wikipedia

    朝凪(あさなぎ)は、大日帝国海軍の駆逐艦[1]。神風型(2代目)の8番艦である[2]。 概要[編集] 一等駆逐艦朝凪(あさなぎ)は[3]、日海軍が大正時代に藤永田造船所で建造した駆逐艦[4]。竣工時は第十五駆逐艦だったが、1928年(昭和3年)8月1日付で「朝凪」に改名された[5]。 竣工後は第29駆逐隊(追風、疾風、朝凪、夕凪)を編制していたが、1935年(昭和10年)11月15日から第28駆逐隊(朝凪、夕凪)となり[6]、翌年6月には水上機母艦「神威」と共に第三航空戦隊を編制し[注釈 1]、南洋群島の基地調査を複数回実施した[7]。 1940年(昭和15年)11月15日より第29駆逐隊に復帰し、同時に第四艦隊隷下の第六水雷戦隊に所属した[8]。 太平洋戦争開戦時も、ひきつづき六水戦隷下の第29駆逐隊に所属し[9]、南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官)として中部太平洋方面の作戦

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  • 朝潮 (朝潮型駆逐艦) - Wikipedia

    新造時 50口径12.7cm連装砲 3基6門 25mm機銃 II×2 (または13mm機銃 II×2) 61cm4連装魚雷発射管 2基8門 (九〇式魚雷16) 九一式爆雷×36 「朝潮」 朝潮(あさしお / あさしほ)は、大日帝国海軍に所属した朝潮型駆逐艦の1番艦[1][2]。1937年(昭和12年)8月に竣工した。日海軍の艦船名としては白雲型駆逐艦朝潮[3]に続き2隻目。太平洋戦争で南方作戦やバリ島沖海戦に参加。1942年(昭和17年)6月のミッドウェー作戦で最上型重巡洋艦4隻を掩護した。ガダルカナル島攻防戦に投入され、駆逐艦輸送や第三次ソロモン海戦に参加した。1943年(昭和18年)3月3日、ビスマルク海海戦で撃沈された。 艦名は海上自衛隊の潜水艦に継承された[4]。 艦歴[編集] 太平洋戦争まで[編集] 仮称第75号駆逐艦として建造計画がはじまった[5]。 1935年(昭和10

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  • 朝潮型駆逐艦 - Wikipedia

    50口径三年式12.7cmC型連装砲 3基6門[12] 計画:25mm機銃 連装2型2基[12] 新造時:25mmまたは13mm連装機銃 2基[3] (61cm)九二式4連装魚雷発射管一型 2基8門[13] 九〇式魚雷 16[13] 九四式爆雷投射機1基、三型装填台1基[13] 爆雷投下台 水圧二型2基、手動一型4基[13] 九一式爆雷 36個[13] 朝潮型駆逐艦(あさしおかたくちくかん)は大日帝国海軍(以下「海軍」)の一等駆逐艦[2]の艦級である。同型艦10隻[2]。一番艦の「朝潮」沈没後は、満潮型駆逐艦と改定された[14]。 概要[編集] ②計画(1934年)で建造された大型駆逐艦10隻[15]。軍縮条約の結果建造された中型駆逐艦(初春型・白露型)では艦隊決戦型駆逐艦とし満足出来ず[16]、吹雪型(特型)駆逐艦並の大きさに戻された[15]。起工前後に第四艦隊事件が発生し、計画改正

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  • 秋月型駆逐艦 - Wikipedia

    秋月型駆逐艦(あきづきがたくちくかん)は、大日帝国海軍の一等駆逐艦[2]の艦級である。計画時の名称から乙型駆逐艦、各艦名から月型とも呼ばれる[17][注釈 1]。日海軍が建造した最初で最後の防空駆逐艦の艦級である。同型艦は12隻が竣工している。 なお、仮称艦名第361号艦以降を「冬月(ふゆつき)型[19]」、仮称艦名第365号艦以降を「満月(みちつき)型[20]」として区別するものもあるが、日海軍の正式な類別(艦艇類別等級)では「冬月型」および「満月型」も『秋月型駆逐艦』である[注釈 2][22]。稿では便宜上の分類も一括記載する。 第一次世界大戦以降、航空機の脅威の認識に差はありつつも航空機対策として各国では軍艦に対空機銃や高角砲を装備するようになった[23]。その中でイギリス海軍が1935年(昭和10年)から旧式化していたC級軽巡洋艦の中から2隻を改装、備砲・発射管を全て撤去し

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  • 朝雲 (駆逐艦) - Wikipedia

    新造時 50口径12.7cm連装砲 3基6門 25mm機銃 II×2 (または13mm機銃 II×2) 61cm4連装魚雷発射管 2基8門 (九〇式魚雷16) 九一式爆雷×36 朝雲(あさぐも)は[1]、日海軍の駆逐艦。一等駆逐艦朝潮型(満潮型)の5番艦である[2]。スラバヤ沖海戦、第三次ソロモン海戦、ビスマルク海海戦、キスカ島撤退作戦など太平洋戦争の数々の海戦に参加。1944年(昭和19年)10月下旬のレイテ沖海戦で西村艦隊に所属してスリガオ海峡へ突入、米艦隊の砲撃で撃沈された。艦名は海上自衛隊のやまぐも型護衛艦3番艦「あさぐも」に継承された。 艦歴[編集] 神戸川崎造船所で建造予定の駆逐艦「朝雲」は、1936年(昭和11年)10月22日に命名[1]。同日附で姉妹艦「山雲」、工作艦「明石」も命名されている[1]。同年12月23日に起工、1937年(昭和12年)11月5日進水、1938

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  • 朝霧 (吹雪型駆逐艦) - Wikipedia

    朝霧(あさぎり)は、日海軍の駆逐艦[1]。 吹雪型駆逐艦(特型)の13番艦(特II型の3番艦)[2][3]。 霧級に属する[注釈 1][注釈 2]。 この名を持つ日海軍の艦船としては春雨型駆逐艦「朝霧」に続いて2隻目。 概要[編集] 駆逐艦朝霧(あさぎり)は、日海軍が佐世保海軍工廠で建造した吹雪型駆逐艦で、1930年(昭和5年)6月末に竣工した。同年12月、新編の第8駆逐隊に所属した[6]。1939年(昭和14年)11月1日、従来の第8駆逐隊は「第20駆逐隊」に改称した[注釈 3]。 太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時、ひきつづき霧級4隻(朝霧、天霧、夕霧、狭霧)で第20駆逐隊を編制し、第三水雷戦隊に所属した[1][8][9]。三水戦は馬来部隊(指揮官小沢治三郎南遣艦隊司令長官)として南方作戦にともなうマレー作戦や蘭印作戦に従事した[1][10][11]。2月中旬には、軽巡洋艦由良等と共

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  • 秋雲 (駆逐艦) - Wikipedia

    秋雲(あきぐも)は、日海軍の駆逐艦[1]。陽炎型駆逐艦(不知火型)の最終19番艦である[2]。 艦は戦後長らく夕雲型駆逐艦とされていたが[3]、1994年に陽炎型駆逐艦であるという研究が発表された(後述)。艦名は海上自衛隊のやまぐも型護衛艦5番艦「あきぐも」に継承された。 駆逐艦「秋雲」は1939年度(④計画)仮称第115号艦として浦賀船渠で1940年(昭和15年)7月2日起工[4]。 1941年(昭和16年)3月25日、「秋雲(アキグモ)」と命名[1]。同日附で昭和16年度内令246号により一等陽炎型に分類される[5]。横須賀鎮守府仮定[6]。 同年4月11日進水[4]。 4月10日まで白露型駆逐艦4番艦「夕立」駆逐艦長だった有輝美智中佐[7] は、6月15日附で秋雲艤装員長に任命される[8]。 6月17日、浦賀船渠浦賀工場内に秋雲艤装員事務所を設置する[9]。 同年9月27日に竣

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  • 神風型駆逐艦 (2代) - Wikipedia

    駆逐隊の変遷[編集] 第一駆逐隊[編集] 横須賀鎮守府籍の神風と峯風型の野風・沼風・波風で編成。1920年(大正9年)10月13日付で舞鶴鎮守府に転出した磯風型駆逐艦からなる先代に続く三代目の第一駆逐隊である。編成未了のまま第二艦隊第二水雷戦隊に投入され、二水戦在籍中に編成が完結した。長らく二水戦で活動したが、大正15年度より最前線部隊からはずれ、大湊での北方警備に就くことが多くなる。太平洋戦争中も解隊することなく北方警備を継続した。末期に南方に転戦し、神風が終戦まで残存した。峯風型では、北方任務中に損傷離脱した波風が再投入されることなく残存した。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の戦歴は各艦の項目を参照。 1922年(大正11年)7月31日:沼風の竣工を機に編成、翌年1月6日に第一駆逐艦(神風)が竣工し編成完結。 1922年(大正11年)12月1日:第二艦隊第二水雷戦隊。 1

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