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てんのじ村に関するmicknのブックマーク (18)

  • 千歳家歳男・松鶴家団之助 - Wikipedia

    千歳家歳男・松鶴家団之助(ちとせやとしお・しょかくやだんのすけ)は、昭和期に活躍した漫才コンビ。戎橋松竹の看板として活躍。 「カバ漫才」とも言われる歳男の容姿をけなす漫才を売りにしていた。 メンバー[編集] 千歳家 歳男(ちとせや としお、1904年 - 1975年)名は岡初太郎。立ち位置は向かって右。 千歳家今男[1]の弟子。都家初丸の名で初舞台。1931年に千日前愛心館で千歳家今若と組む。戦争に入り従軍し長らく芸界を離れる、復員後は今若はすでに兄の千歳家今次と組んでいたので歳男は一輪亭花蝶、立花幸福、小川寿美江、浮世亭歌楽、星ララ子等と組む。コンビ解散後長らく引退し松竹芸能の新世界新花月の頭取になる。風貌は大柄で大きな顔が特徴。容姿がカバに似ていて「カバやん」という愛称があった。時折新花月では楽屋から舞台に現れては客席から「おい!!カバ」と声がかかったり、拍手がきたりしたという。

  • 佐賀家喜昇・旭芳子 - Wikipedia

    この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。他の出典の追加も行い、記事の正確性・中立性・信頼性の向上にご協力ください。 出典検索?: "佐賀家喜昇・旭芳子" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2018年9月) 佐賀家 喜昇・旭 芳子(さがのや きしょう・あさひ よしこ)は昭和期に活躍した夫婦の漫才コンビ。戦前、戦中は天満など、当時の場末の端席に出ていたが、やがて注目され、戦後はトップホットシアター、新世界新花月をホームグラウンドとし人気を博した。 メンバー[編集] 佐賀家 喜昇(さがのや きしょう、名・北中 浅次郎、1897年 - 没年不詳〔1980年時点では存命〕) 大阪の生まれ。生家はうどん店。17歳で東京の落語家の三遊亭圓流の門下で圓幸を名乗り巡業していたが、1

  • 「浪華芸人横丁〜大阪天王寺 山王町〜」 - よみがえる新日本紀行

    「浪華芸人横丁〜大阪天王寺 山王町〜」初回放送日:2020年5月3日 昭和46年放送の「新日紀行」が、最新のデジタル技術で、あざやかな映像に。多くの芸人が暮らす大阪天王寺の横丁を訪ね、人情味あふれる人々の暮らしを描く。 あざやかな映像によみがえった新日紀行と、その土地の今を伝えるミニ紀行をご覧いただく。昭和46年当時、大阪天王寺の「浪華芸人横丁」には、漫才や落語など大衆芸能の芸人たちが、肩を寄せ合って暮らしていた。あれからおよそ50年。この町から芸人の姿は消え、往時の面影もわずかになったが、あたたかい庶民的な暮らしは今も残っていた。観光名所となった新世界や、横丁の芸人たちが活躍した劇場なども紹介する。

    「浪華芸人横丁〜大阪天王寺 山王町〜」 - よみがえる新日本紀行
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  • 笑いの碑を訪ねて④~てんのじ村記念碑~ | 大阪石材工業株式会社 南大阪店

    笑いの碑を訪ねて④~てんのじ村記念碑~ こんにちは店長安達です。 笑いの碑、4回目は、西成区山王にある上方演芸発祥之地、てんのじ村記念碑です。 この界隈は、新世界などの演芸場からも近かった為、最盛期には300人以上の芸人が住んでいたと言われています。 素直に面白カッコいい石碑です。 「大入」って書いてますが、この記念碑は防犯上の都合なのか、フェンスで仕切られて入ることはできません。 お笑い関係の発祥之地が多い大阪の地力を感じます。 大阪石材工業株式会社 南大阪店 TEL:0721-35-1114 営業時間:9:00~16:00(年中無休) 住所:大阪府富田林市佐備1808 お墓のご相談LINEで承ります ご利用方法:LINEアプリがインストールされているスマートフォンなどから、以下の【友だち追加】ボタンをタップするか、QRコードを読み取ってください。

    笑いの碑を訪ねて④~てんのじ村記念碑~ | 大阪石材工業株式会社 南大阪店
  • 当サイトについて | 漫才ドットコム

    てんのじ村芸人プロジェクトとは 私増田浩紀が森田淳也と共に、2007年より行っている演芸活動で、その時々で協力してくれるメンバーと共に、のぞきからくりと尾張万歳を中心とした放浪芸全般についての実演を中心とした活動を行っています。 日には、当にすばらしい芸能が数多くあります。しかし放浪芸という分野においては、大半が失われたり、風前の灯であったりします。ではそれは、当に自然淘汰と言えるのか。少なくとも私個人にとっては、とても魅力的な芸能に思えます。 だからこそ、この活動を通して、今一度それらの芸能を世に問いかけたいのです。当にこれらの芸能はいらないのか。なくなってしかるべきなのか。 我々の活動を通してこれらの芸能に触れた人が、少しでも「楽しい」「面白い」、そう思っていただければ、それが何よりの喜びです。 「実演者であり続ける事」と、「保存のためではなく、糧を得るための生きた芸能として実

    当サイトについて | 漫才ドットコム
  • 大阪・西成の「釜ケ崎」と「てんのじ村」に漂う戦後の匂い|そこに昭和がある旅

  • リーフの歴史② ~てんのじ村~

    「家具から始める家づくり」リーフの猪倉です。 12月最初の週末はほどほどに賑わいのATC。 私は、あと数時間で船旅に出ます(^^; 出航前に、昨日の続きを。 西成区山王 JR天王寺駅から西へ少し行ったところに、再開発で綺麗になった、大阪市立大学医学部附属病院があります。 その、奥の路地に入り、細い階段を下ると、再開発の華やかな雰囲気から一変、昭和の香りのする地区に出ます。 「大阪市西成区山王」 昭和24年3月1日、私の祖父、猪倉勇助がこの地に木工所「マルイ木工」を設立しました。 当時、作っていたのはソファの芯材となる木フレーム。 現在では、どんな家具も全ての工程を一つの工場で行うのが一般的ですが、当時は分業制がまだまだ残っていた時代。 少し前まで、よく仕入れに行っていた徳島などの鏡台(ドレッサー)産地もほとんどのメーカーが分業制を敷いていました。 堀江などにあった木材問屋から曳いた板を仕入

  • 山王 (大阪市) - Wikipedia

    山王(さんのう)は、大阪大阪市西成区の町名。現行行政地名は山王一丁目から山王三丁目。 地理[編集] 西成区の北東端に位置する。 浪速区と天王寺区と阿倍野区との境目に近い1丁目と2丁目は、細い路地が入り組む昔ながらの商店街や長屋が建ち並び、さながら昭和か大正かと思わせるノスタルジックな趣の町並みを醸し出している。 南に下った3丁目には、大正時代から続く飛田新地という日最大級の旧遊廓がある。 戦前から戦後にかけて数多くの芸人が住んでいた地域であり、その名残を後世に伝えるための『てんのじ村記念碑』(1977年11月建立)が存在する。難波利三の直木賞受賞作『てんのじ村』(1984年)の舞台として有名になった。 西隣の太子、萩之茶屋地区には釜ヶ崎(あいりん地区)があるが、エリア的に新今宮駅、萩ノ茶屋駅周辺を指し、山王地区とは全くの別地区である。その誤解を嘆く声として、「現在の山王はあいりん地区だ

    山王 (大阪市) - Wikipedia
  • ジャンジャン横丁と「てんのじ村」碑、廃線跡を辿る | 大阪府保険医協会

  • 文化・名所・旧跡

    | だいがく | 勝間街道 | 勝間凧 | 津守神社 | 紀州街道(住吉街道) | | 阪堺電気軌道の路面電車 | 渡し船場 | 天満宮 | 正円寺 | 苔山龍王 | 敷津松之宮西成社 | 天下茶屋跡 | | 津守新田会所跡 | 玉出の環濠 | 十三間堀川 | 天下茶屋公園 | こつまなんきん | てんのじ村記念碑 | | 近松門左衛門碑・塚 | 安養寺 | 波切不動尊 | 清和天皇(858年頃)のとき、ひどい干害に農民達が困まっていた折、日66カ国の一の宮の神燈と鈴のつく櫓をうちたて、雨乞い祈願をしたところ大雨がふったので、これを喜び、櫓に台をつけてかつぎ太鼓を打って巡遊したのが始まりである。現在残る一基は戦時中、岡山県下に疎開、戦火を免れたものである。鳥居横の「玉出台額(たまでだいがく)最後の懐姿」で昔を偲ぶことができる。 現在では小型のものも造り、毎年生根神社祭礼日(7月24・2

    文化・名所・旧跡
  • 青柳房夫・花柳かねこ

    人 物 青柳あおやぎ 房夫ふさお ・ 名 田端 ? ・生没年 ??~1970年代 ・出身地 ?? 花柳はなやぎ かねこ ・ 名 田端 はるを ・生没年 ??~1981年以降 ・出身地 ?? 来 歴 戦前戦後活躍した漫才師。女性のかつこ(かねこ、とも)の方は、高度経済成長期に大阪へ戻り、浮世亭出羽助とコンビを組んだ。 元々は河内家房春の門下であったそうで、『話』(1940年新春号)の『漫才太平記』に「房春の弟子の房夫・兼子などがある。」と記されている。 当初は「青柳房夫・兼子」という名前のコンビであったという。 戦前は吉に所属していた模様で、太平洋戦争に突入する頃、突如として売り出し、南地花月や北新地花月など、一流の漫才劇場に出演するようになる。以下は、『上方落語史料集成』や『近代歌舞伎年表』に出てくる、二人の名前。 1939年の広告に―― 六月二十一日より △南地花月 おもちや、芳男

    青柳房夫・花柳かねこ
  • 浮世亭出羽助・八丈竹幸 - Wikipedia

    浮世亭出羽助(1901年5月5日 - 1980年3月24日)名は中尾幸一郎。 和歌山の生まれ、浮世亭夢丸の門下、最初は砂川菊一を名乗った。1920年大阪天満吉川館で初舞台。 三曲万歳では胡弓を担当し時折テレビ出演もあった。 1976年に慢性気管支炎で公害病に認定された後はほとんど舞台に出ることもできず[2]、1980年、自宅でこたつで死亡しているのを相方の花柳かつこが発見した。東雲節や都々逸も得意とした。SPレコードも残されている。大阪のてんのじ村に長年居住していた。 八丈竹幸(1904年 - 1969年)名は追田海子。 広島の生まれ、1928年に南地花月で追田旭湖名の名で色物・琵琶の演奏で初舞台。その後浮世亭出羽助とコンビを組むにあたり浮世亭夢丸の門下になった。九条武子(くじょう たけこ)より少し容姿が劣るという事で八丈竹幸と名付けられた。 花柳かねこ(? - ?)名、田端はるを。

  • 吉田茂・東みつ子 - Wikipedia

    吉田茂・東みつ子(よしだしげる・あずまみつこ)は大正末から昭和期にかけて活躍した漫才コンビ。 概要[編集] 吉田茂は大阪市西成区山王にあった芸人が多く住んだ地域「てんのじ村」のシンボル的な存在で、またそれを題材した直木賞作家の難波利三の「てんのじ村」のモデルとなった。 主な芸風は当時主流だった音曲漫才やしゃべくり漫才をやらず「かぼちゃ」という芸で、童謡詩人の清水かつらの「が鳴る」の曲に乗って国民服の帽子を被り古びた丈の短い着物や袴を着てひざ歩きで舞台を上手から現れ徐々に立ち上がる珍芸を売り物にした(時に野球のユニフォーム姿もあった)。 メンバー[編集] 吉田 茂(よしだ しげる、名・同じ、1899年 - 1985年12月26日) 鳥取県米子市の生まれ、1920年頃から安来節で舞台に立っていたが、安来節が下火になり漫才に転向して大正の末から京都新京極勢国館の漫才の寄席で人気を博す。若松正

  • 砂川捨丸・中村春代 - Wikipedia

    砂川 捨丸(すながわ すてまる、1890年12月27日 - 1971年10月12日[2][3]) 名、池上 捨吉[2][3]。 実兄である江州音頭の音頭取りの砂川千丸の一座に入り、修業を積む[1][2]。1902年(明治35年)、千日前の寄席「井筒席」で初舞台[2][3]。その後、一座で全国を巡業。1905年(明治38年)には兄のもとを離れ、大阪松島の「堀内席」に上がる[3]。 1916年(大正5年)、樋口次郎吉率いる「樋口興行部」の専属となり、神戸劇場に出演。以後終生、神戸を拠地とした。1918年(大正7年)、初めてSPレコードを録音。万才師による音曲のレコーディングは初のことだった[3]。数え唄や江州音頭などをのべ数千枚[1]吹き込み、捨丸は全国的に知名度を高めた。とりわけレコードを通じて『串節』を全国に広めた[4]ことで、のちに和歌山県串町名誉町民として表彰された[5]。 捨

  • 平和ラッパ・日佐丸 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "平和ラッパ・日佐丸" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年9月) 平和ラッパ・日佐丸(へいわラッパ・ひさまる)は、太平洋戦争終戦前および戦後に活動した日の漫才コンビ。同名を名乗る初代コンビ、2代目コンビ(日佐丸はさらに3度代替わりしている)と、3代目コンビがいた。 初代コンビ[編集] 当初は吉の主要の漫才寄席に上がっていたが、1939年(昭和14年)、新興キネマ演芸部に高額報酬で引き抜かれる[1]。 初代平和ラッパ(1905年頃[2] - 1945年、名:北川安太郎) 出生地は不明。 戦前の吉の看板。初代平和ニ

  • https://plus.nhk.jp/watch/st/g1_2021042716071

  • 【てんのじ村】西成区山王・忘れ去られた大阪の文化遺産「上方演芸発祥之地&旅館明楽」 - 大阪DEEP案内

    ひたすらドヤ街と安宿街、飛田新地のイメージばかりで語られる西成・釜ヶ崎とその周辺の界隈だが、この土地は数々の大阪土着文化を生み出している事も見逃してはならない。 地下鉄動物園前駅から天王寺方向に少し歩いていくと、阪神高速の高架下を越えたところに、ちょっと気になる一画がある。古ぼけた一軒の旅館と、昭和風情たっぷりは質屋の看板、さらにはその下にある、明らかに背丈以上はありそうな大きな石碑。 金網で塞がれた「上方演芸発祥之地」の石碑 その一画に近づいてみることにする。何やら物々しく金網で遮られた空き地の中に立派な記念碑が建立されているのが目につく。その碑には「てんのじ村記念碑」と書かれているのが読める。 この場所は「上方演芸発祥の地」。戦前から芸人や漫才師が集い暮らしていた場所として「てんのじ村」と呼ばれ親しまれていた。戦後もこの場所は戦災を免れ、引き続き上方芸能の拠点として再興したなどと記す記

    【てんのじ村】西成区山王・忘れ去られた大阪の文化遺産「上方演芸発祥之地&旅館明楽」 - 大阪DEEP案内
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