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ブックマーク / kaoriha.org (2)

  • 中里一日記: 「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々

    「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々 参考:僕の考えた超人 「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々がいる――と書いただけですでに出オチだが強引に続けてみる。 このフレーズで重要なのは、「僕」のところだ。「俺」でも「私」でもない「僕」である。「自分のことを僕と言っていいのは大山のぶ代のドラえもんだけだ」という天下の大暴言に深く共感する私にいわせれば、「僕」という一人称には深い意味がこもっている。 「俺の考えた女の子」の「俺」は、タフな感じがする。「お前はバカか」とあきれてみせれば、「俺の考えた女の子」はあっさりと修正されるだろう。いや、修正させる必要もない。放っておいて、事実とぶつからせてやればいい。「俺」はそういう荒っぽい扱われ方を必要とする。 「私の考えた女の子」の「私」には、オープンな姿勢を感じる。「それはちがう」と指摘すれば、それがもっともらしい指摘なら――この「もっともらしさ

    mickoh
    mickoh 2009/11/30
    >このフレーズで重要なのは、「僕」のところだ。
  • 中里一日記: 信じさせる力

    信じさせる力 佐藤亜紀『小説のストラテジー』(青土社)を読んだ。 余談。秋葉原の書泉ブックタワーで買う予定でスケジュールを組んだら、なんと入荷していなかった。書泉ブックタワーに三度アナテマ。 さて書評。 書いてあることはいちいち正しくてもっともで、この程度のことは漠然とでもわかっていないと困るのだが、かといって誰かがしっかり書いたことがあるかといえば、ないような気がする。つまり、よくできただ。 どんなことが書いてあるか。 板垣恵介『範馬刃牙』に、刃牙が空想上の巨大カマキリと戦う話がある。ほぼ世界最強の格闘者になった刃牙は、イメージトレーニングの相手に事欠き、巨大カマキリを空想してそれと戦った、という話だ。小説を読むことはこれに似ている。読み手にとっての小説は、刃牙にとってのカマキリのようなものだ。 巨大カマキリをどうイメージすればいいか。それにはまずカマキリを知る必要がある。どんなアプロ

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