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ブックマーク / kajipon.sakura.ne.jp (2)

  • ビバ・俳句!蕪村、放哉、山頭火

    ビバ・俳句!蕪村・放哉・山頭火 - 名句60選 - 【 与謝蕪村~俳句BEST20! 】 放哉/山頭火 ※自分なりに現代語訳をつけてみました 1716-1783.12.25 享年67歳 生活費の為に絵筆を握り、画業を優先していた蕪村が、50歳を過ぎて俳諧の活動を格化した時、友人たちは 「遅桜人に待たれて咲きにけり」とこれを喜んだ。蕪村の句はズバ抜けて自然描写に長けている。これは画家が 持つ鋭い観察力の賜物。わずかな文字で情景をスケッチするだけで、読み手に彼方まで風景を見せるんだ。 ※俳句の表記では言葉の間隔を空けないのが普通ですが、初心者に見やすくする為に、ここでは空けています。m(_ _)m (20)畑(はた)打つや うごかぬ雲も なくなりぬ …畑仕事をしているうちに、さっきまで動かないように見えた雲がどこかへ消えちゃった (19)近道へ 出てうれし野の 躑躅(つつじ)かな …偶然近道

  • 種田山頭火の生涯

    大正・昭和の俳人。季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を詠んだ。名は正一。山口県防府の大地主の家に生まれる。父は村の助役を務めたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、これに苦しんだ母は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げた。井戸に集まった人々は「が落ちた、子供らはあっちへ行け」と山頭火を追い払ったが、彼は大人たちの足の間から母の遺体を目撃し、心に深い傷を残す。現・防府高校を首席で卒業した後、早稲田に入学。しかし22歳で神経症の為に中退して帰郷する。この頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しており、立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、彼は父と酒造業を開始する(24歳)。27歳で結婚、子を持つ。 10代中頃から俳句に親しんでいた山頭火は、28歳から“山頭火”を名乗って、翻訳、評論など文芸活動を開始。31歳、俳句格的に学び始め、俳句誌に掲

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