山形県村山市から山形県河北町へと勢力を伸ばし、最期は山形城主最上義光に謀殺されたと伝えられる悲運の戦国大名、白鳥十郎長久の直筆とみられる書状が白石市内で発見された。2月23日には長久ゆかりの地である村山市戸沢地区の住民らが宮城県白石市を訪れ、謎も多い長久の貴重な史料と対面した。 見つかったのは1581年5月9日、長久が仙台藩重臣で伊達家の外交を担当した遠藤基信にあてた書状。 長久は書状の中で、大崎市を拠点としていた大崎義隆の上洛(じょうらく)に当たり、仙台藩の領内だった山形県置賜地方を通行できるよう願い出ていた。末尾には長久の直筆とみられる花押があった。 白石市内では昨年、遠藤家の子孫が暮らす民家に約6000点に上る古文書が保存されているのが見つかった。このうち約50点は戦国時代に諸大名が遠藤家初代の基信にあてた書状。この中に長久の書状も含まれていたという。 領民に慕われつつ悲運の