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ブックマーク / f59.aaacafe.ne.jp/~walkinon (4)

  • 「真似」る話

    街にはザワザワと無数の跫音がむれている。 泥棒の跫音も、パンパンの跫音も。 しかし、人間のふるさとは人間の中にしかないと分れば、 生きることほど、なつかしいものはないだろう。 ――坂口安吾『「街はふるさと」作者の言葉』 1.真似はするもの? しちゃいけないもの? 先日、たまたま電車で知り合いの十代後半の女の子と一緒になった。彼女はA子と仲が良く、いつ見ても一緒にいる印象があったので、わたしは深い考えもなく「今日はA子ちゃんとは一緒じゃないの?」と聞いてみた。 すると、彼女の表情が変わった。「もうA子なんて関係ないんです」 わたしが何とも返事をしないでいると、彼女は「あの子、ひどいんですよ」と堰を切ったように話し出した。 ――A子ったらいつもわたしのマネばっかり。わたし、最近メガネ替えたでしょ、そしたら、A子ったらそれまでコンタクトだったのに、わたしと同じセルフレームにしたし、このあいだなん

    mind
    mind 2007/11/15
    人真似は反感を引き起こす。 ――☆引用ばかりしているとよく、鸚鵡みたいでゴメンね、と思うmRm。 ――同一化欲求の一形態でもあるらしい/// (行動レベル)
  • 物語をモノガタってみる

    1.あなたはだれですか? 昔々、いまとなっては前世紀のこと。 当時の習俗に「合コン」というものがあった。そこである人物が自己紹介をするのに、「ボクはセンター試験では数学と物理と英語で満点だった」と、すでに受けてから何年も経過した試験の点数を語ったのである。端から見れば、ひどく奇妙な自己紹介ではあるけれど、人にとっては自分を語るために、欠くことのできない属性として、「満点を取ったこと」があったのだろう。 けれどもこの点数は、あなたはだれですか? という問いの答えになっているのだろうか? たしかに自分がだれなのかを説明するのは簡単なことではない。 ためしにやってみてほしい。 心理学方面に「20答法」というのがある。心理学というより一種の「心理テスト」に近いものなのかもしれない。 ともかく、わたしは……である、という文章を二十作ることで、自分自身のアイデンティティにアプローチする、というものら

    mind
    mind 2007/03/09
    わたしたちは「物語り」を使わずして、過去の経験を語ることはできないし、過去の「出来事」も語ることはできない。自分が誰かを語ることもできないし、他者を理解することもできない ――物語脳の刷込み //歴史物語
  • 「事実」とはなんだろうか

    1.実話か虚構(フィクション)か ずいぶん前の話だけれど、『一杯のかけそば』という話が話題になったことがある。なんでこんな話が、と思っているうちに、それがフィクションだとわかり、この間まで「感動した」「わたしも泣きました」と言っていた人が、手のひらをひっくり返したように批判を始め、作者の私生活まであれこれと暴かれたのではなかったか。 ともかく批判していた人の中には「実話だと思っていたのに裏切られた」という反応が少なくなかったような気がする。 似たようなケースは外国のでも起こり、これも知っている人も多いと思うけれど、ジャン・ジオノの短編小説『木を植えた男』、これも日では最初実話という形で受け取られたようだ。 ためしにアマゾンで検索してみると、読者レビューが載っていて、「事実ではなくても」といった、なんとなく微妙な発言がいくつかあった。 これは何も日だけに限った話ではないようで、リリアン

    mind
    mind 2007/02/24
    歴史/歴史小説/小説 ――冒頭陳述物語とか //「自分のことを自分で書く」時点で、すでに「他者の視点」。 …「真実」は、いつでも「私の真実」だ。そうして、「私の真実」は、「私」を物語る。 ――私小説(的物語)とか
  • 「私」と「I」の狭間で ――主語を考える――

    1.変幻自在な「私」と金太郎飴の「I」 来年から小学校に上がる甥っ子2号が、久しぶりに会ってみると、いつの間にか一人称に「オレ」を使うようになっていた。 ふたつ上のお兄ちゃんほど確立されたものになっているわけではなく、どうかすると、従来通り「Kちゃんも~」「Kちゃんがやる~」という言い方が混ざるのだが、あきらかに主体を指すことばの中心は、「オレ」に移行しつつあった。自分をどう呼ぶか、これだけのことではあっても、子どもが成長につれて、自分と、自分を取り巻く世界との関係をどのように認識していくかが鮮明に現れていて、ヴィゴツキーの『思考と言語』を読み返してみたくなったりもしたのだが、ここで考えてみたいのはそんなことではない。 さらに、父親が「じいじ」になっていた。 甥っ子の母親、すなわちわたしにとっては姉が、父のことを「じいじ」と呼ぶのである。あろうことか父までもが「レンゲル(※『A&P』の支店

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