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ブックマーク / noon.serio.jp (9)

  • 知性なき「はてな」(2)―乞食より貧しいはてなブックマーカーたちの精神 (セックスなんてくそくらえ)

    あるブログの書き手のあまりにひどい言語障害、そしてそのようなブロガーが書き捨てるエントリに盲目的に追従する、頭が悪いとしかいいようがない数多くの読者の姿。 この二つが渾然一体となってかもしだす、なんともいえない雰囲気こそが、ブロゴスフィアという人生劇場の醍醐味であり、その舞台で日々行われる悲喜劇を、軽いめまいと頭痛を覚えつつ眺めるということが、私たち現代に生きるものの楽しみである、と言えないこともないだろう。 そしてそのような光景は日常茶飯事である。 さて、日私noon75が皆さんにご紹介したいと思うのは、次のようなブログである。 不謹慎な箱男: ホームレスになってみよう。 世に曰く 「乞は三日やったらやめられない。」 らしい。 そいつが当かどうか試してみてぇ! ということで、6/7~6/9にかけて新宿において2泊3日のホームレス生活をやってみた。 そしてこの人物は、事にも

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    mind 2007/06/14
    コメ欄: 誰もが人を利用して持ちつ持たれつ寄り添うように倫理観の欠如とともに書いているのです。 ――自分勝手な人々の…。全ての方向にはね返ってくる。。
  • 知性なき「はてな」―本の読めない技術者・伊藤直也 (セックスなんてくそくらえ)

    あなたの経歴を知っているわけではないが、少なくとも現代の先端を走る技術者はほとんど書籍には頼らない。なぜなら書籍がでるころにはすでにその技術はコモディティ化しているからだ。 もはや技術のスピードはがでるようなスピードでは進化していない。もちろん普遍的な技術もあるのでそういったものは書籍に頼ったほうが効率が良いだろう。だが最先端を進むには、普遍的な技術プラス新しい技術を見る目が必要なのだ。 あなたの記事を読んでいると、とてもここ最近のインターネットの事情について詳しいとは思えない。もう少し勉強してから批判をしてみてはいかがだろうか

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    mind 2007/04/07
    ――物語(とアナロジー)は共通認識を深めるのに役立つけど、なんで『STAR WARS』なのかは気になる。「CTOよ、FORTHを使え!!」ということかなw //技術書は職場に、思想書は引退後に。 //ヤフblog…と比べる限りは、かなり自由。
  • ブロガー最大の侮辱 (セックスなんてくそくらえ)

    このブロゴスフィアでもっともひどい侮辱とは、生まれてからただの一度も読む能力、書く能力というものを持ったことも、持とうと努力したことも、そのような資質が存在しているということにそもそも気がついたことすらなく、今後死ぬまでそのような認識を持ち得ない低脳コメンテーター、アクセス乞はてなブックマーカー、アルファブロガーに類する生き物に、自分のエントリをほめられることである。

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    mind 2007/03/19
    ――セックスブログ作法の導入によって、ジュールダン氏(@モリエール作『町人貴族』)が自分が話してきた言葉が散文であったと驚いたように、未知のセカイが見えるようになりブログ観そのものが変わるであろう。
  • 匿名書き捨てコメントという汚穢がブログという花の肥料となる (セックスなんてくそくらえ)

    僕もまた、どこかでバカなはてなダイアラーの相手を真剣にし続けるブロガーのように、匿名の誹謗中傷、あてこすり、皮肉、嫌味というものを、この地上に降り注ぐ流れ星の数ほど受け続けてきたブロガーであることは、皆さんご存知の通りであるが、だがそれは読者の皆さんが気にしてくださるようなことではなく、お気遣いはありがたく受け取っておきたいと思うが、むしろこれこそブログのあるべき姿であり、そこにこそブログの価値がある、と気が付くべきである。 確かに、有名セックスブロガーであるnoon75を妬む人々、うらやむ人々、指をくわえて眺めているアタマの弱い人々というものがおり、彼らは自分たちが才能がない、自信がない、夢をかなえることができない人間だと思っているのである。なぜそう思うか。そう思ったほうが楽であり、怠惰だからである。その過剰な自意識を科学的に、論理的に世の中人のために使おうとする努力を怠り、無名のまま、

  • 僕の名は正午 (セックスなんてくそくらえ)

    その名前はどこにもない時間、朝と夜の狭間、何人でもなくどこにも存在しない架空の一瞬を由来としており、僕はものを書きはじめた十八歳の頃、祖父がつけてくれたという仰々しい名を捨てて、自分をそう名づけたのだった。僕という魂が空虚そのものであり、どこにも存在しないのだとはっきりと理解したのは、日に帰ってきてからすぐのことである。帰るべき故郷というものがフィクションであると気づかざるを得ない人間というのは、ある資質に恵まれているのかもしれないが、人生のある一時期において、それが不幸なことであると思ったこともあった。だがトロツキーがかつて言ったように、故郷を持たないものこそ幸いである、なぜなら地球のあらゆる国が、彼の故郷になりうるからであるということが可能なのであれば、僕は幸福な人間であり、また子供の頃強制的に多言語環境に放り込まれることによって、結果としてほかの人間に比べてほんの少し、優れた言葉

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    mind 2006/12/08
    ――痛みを創作に向けるのが常套手段なら、創作のために嬉々として痛みを引受けるのは倒錯、自己破壊か。それとも防衛機制か…?
  • やらせてくれる女には飯を奢るのは当然 (セックスなんてくそくらえ)

    男はなぜ女に飯を奢るか。なぜこんな簡単な質問に悩む多くの人間がいるのだろうか。女は股を開き、男はそれにカネを払う。そこに何も不健全なことはなく、まったくもって当然なことである。 先日たまたま銀座の歌舞伎座で「出刃打お玉」を見る機会があった。売春婦に助けられてあだ討ちを成し遂げる侍の話である。僕が驚いたのは、女を買うということが至極当然のこととして表現の中に取り入れられていたことである。買春は別に騒ぐようなことでもなんでもないはずなのに、それについて語ることがあたかもスキャンダラスな何かであるかのように語られる現在日の状況というのは非常に不可思議マカ不思議であり、少なくともかつての日においては、現在のように買春行為を自分探しツールとして過剰に祭り上げたり、または汚れたものとして過剰に無視したりといった、まるで女にモテたことがない男たちが考えたような女に対する幻想に支配された陰気で柔弱でヘ

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    mind 2006/12/04
    男が飯を奢るのは女をカネで買うのと同じである。 ――「衣食足りて性欲を知る」 という話?
  • 「女性ブロガーに告白されました」の狂気 (セックスなんてくそくらえ)

    たまに女性ブロガーから理解不能のコメントが届く。  会ったこともなく、言葉を交わしたことすらなく、セックスもしたこともない女性からのメッセージである。 ネットで文章を書いている、身元不明、性別不詳、職業無職かもしれない自称男性ブロガーに熱烈なコメントを一方的に送りつける輩というものがいて、それはしばしば女性であるように思うのだが、なぜそういう主張をするかというと僕には、男性ブロガーがある女性ブロガーに恋文を送りつけたとか、そういうことは寡聞にして一度も聞いたことがないのであって、あるとすれはどちらかというと嫌がらせとして、やらせろ、だの、まんこを見せろ、などというのだが、男たちはそれを好きな女のスカートをめくるような遠い憧憬の念を持ってやるのであって、女性ブロガーのような直球勝負の熱烈さというものは、まず男には真似できないものだと思われる。ある意味、その思い込みの激しさというものは、ほ

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    mind 2006/11/24
    ――女性の無断ブクマコメ禁止w //それと、{「公開告白」の微妙な問題: こ、こんなところで…///'、
  • 童貞の皆さんに言っておきたいこと (セックスなんてくそくらえ)

    (コメントは匿名でも記入できます。メールアドレスも必要ありません。コメントされた言葉の著作権はすべてブログ管理者に帰属することにご注意ください。削除や変更要請は受け付けません。またIPアドレスはコメントした個人を特定するために記録されています。)

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    mind 2006/11/20
    ――相手のカラダを道具に使って自慰するのか、相手になったつもりで相手を慰めるのか…どっちがどっち@@?
  • 真剣に考えるということ (セックスなんてくそくらえ)

    なんに関しての話でもよいが、ある物事に関して考える際、たとえばセックスでは癒せない孤独、凡庸で退屈な日常のかけがえのなさ、体を売る女たちの不可視の商品価値などに関して、ブロガーが「真剣に」考えなければいけないという倫理が、あたかも真剣に考えることそのものよりも重要視されるきらいがあるように思うのだが、一見どこにもおかしなところのないようなこの倫理的で道徳的な基準の中には、誠実で知的であるために必要なある視点が欠けているように思っていて、それはすなわち「真剣さ」とはどのようなものであるかということについての考察が、そもそも抜けているからではないか考えるのである。確かに、誠実な思索のために男はたとえば、射精したあと縮んだ性器が常に滑稽に見える件について真剣に考えなければいけないが、問題はここで言われている「真剣さ」がどようなものであるべきかということなのであって、たとえばまじめに、力の限り、こ

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    mind 2006/11/12
    …単なる好悪の問題ではなく、好悪そのものを成り立たせる何かへ遡及すること。それはなぜかと問うことでより思索の上流へと遡ること。 ――ふわふわとした感情のもととなる、地に着いた感情のメカニズムまで遡る。
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