文章を書いて公開するという行為には、そこには、自分の考えを部分的であれ理解されたいという欲求や、私の理解したことを他者に伝えたいという滑稽なまでに素晴らしい使命感などの、何らかの「わかってもらいたい」とか「共有したい」とかの意図ががあるわけです。 もちろん、「感情を共感」的なレベルではなく、難しい概念的なことを伝えたい場合には、ある一定層以下のレベルには伝えることを諦める必要性はあって、最低限、これ以上はわかる能力のある人にだけわかってもらえばいい、という脚切りは発生します。 たとえば「本当の私を誰もわかってくれない」と言う人に、「本当の『私』ってなに?」とか「あなた自身は『本当に私』を知っているつもりなの?」という説明以上に、わかりやすく説明するのも難儀なわけで、おそらくの場合は、優しくわかりやすく説明したってわかりやしないし、そもそもその程度の人が「自我」の概念について根源を知りたいと