日記僕たち、あるいは私たちは何故この「性」であって、他の「性」ではないのだろう。僕たちがいつも立ち止まるこの問いは、現在においても非常にアクチュアルな問いである。現在におけるBL、百合あるいはトランスジェンダー、フタナリ、女装、男装などの性倒錯的なジャンルやテーマの作品の勃興は何を意味しているのだろうか。僕たちはそこに何か特別な「あこがれ」を投影していないだろうか。その「あこがれ」とは、自分と違う「性」への「あこがれ」である。自分がもし男だったら、女だったらというような欲望が働いているのではないだろうか。いやそもそも、僕たちは何故自分が違う「性」だったらと考えてしまうのだろうか。社会学者の大澤真幸によると現在の時代は「不可能性の時代」であるという。「不可能性の時代」とは=不可能性を志向する時代のことである。(大澤は様々な事件や文学作品などを通して、現在は「不可能性の時代」であると説くが、こ