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ブックマーク / shu-koushi.hatenadiary.com (11)

  • 信を失った者の末路 - 噬嗑録

    儒学では信を重んじる。 信が重要、これは当たり前と言えば当たり前である。しかし当たり前すぎて、なぜ大切かと言われるとよく分からないものでもある。 なぜ信は重要なのか。信を失えばどうなるのか。 信とはなにか 論語の教え 益軒先生曰く 信を失った者はどうなるか 人にして恒なければ 天下に身の置き所がなくなる 信足らざれば… まとめ 信とはなにか 荻生徂徠先生は信を以下のように解く。 信なる者は、行ひ言に爽(たが)はず、符節を合するが若きなり。 (信とは、行動と言語があたかも割符を合わせるようにぴったりと一致することである) 「信」はにんべんに言うと書く。人の言葉に嘘があってはならない。人の言葉はすべからく真実であるべきだ。人の言葉は誠であるべきだ。 誠はごんべんに成すと書く。言ったことを言った通りに成す。言ったことに嘘がなく、真実であることを「まこと」という。だから「信」と書いて「まこと」とも

    信を失った者の末路 - 噬嗑録
  • 報われない努力について - 噬嗑録

    以下のような質問を受けた。 努力が報われぬ不幸について、である。 質問を受けてから。随分と日が経ってしまった。 ①はすぐにでもお答えできたが、②③に向かい合うのに時間を要したためである。 このような話題は、書きたくありません。 私の場合であれば、親や兄弟が凶事に見舞われた場合を想定するのであって、考えていると胸がムカムカして気持ち悪くなってくる。中々、文章を書くどころではない。 したがって②③については、簡単にお話しできる機会を待つとして、とりあえず①だけお答えします。 陳蔡の災難 暗君・霊公 軍事にも通じた孔子 孔子の去就 陳蔡に窮する 七日わず 子路の慍り 子路を諭す 仁者・智者も窮する 子貢を叱る 子路と子貢の違い 子路への励まし 報われないことは問題でない 己れ能無きを患ふ なぜ舜は偉いか まとめ 陳蔡の災難 「一生懸命が報われない、その理不尽について論語にはどのように書いてある

    報われない努力について - 噬嗑録
  • 孝経講話02 開宗明義章第一 章の大意、経書の読み方 - 噬嗑録

    前回、序文として、孝経を理解する上で妨げになっていると思われることをいくつかお話しした。 孝経講話 序文 - 噬嗑録 今回からさっそく文に入っていく。 章の大意 経書の読み方 論語 大学 易経 その他 開宗明義章の大きさ 章の大意 孝経の第一章は「開宗明義(かいそうめいぎ)章」である。 この章の内容は、「開宗明義」の四文字にて分かる。 開・・・ひらく、明らかにしてゆくこと 宗・・・むね。もと、根、主なること 明・・・あきらかであること 義・・・ことわり、意義 開宗は、根を明らかにしてゆくこと。 明義は、開宗によって意義が明らかになること。 開宗明義は、孝の根を明らかにすべく説き、そして孝の深い意義が明らかになる。 この章は、そういう主旨である。 経書の読み方 経書、特に古いものほど、最も重要なる教えを冒頭に据える傾向がみられる。 そうでない書もあろうし、全体の内どれくらいといったこ

    孝経講話02 開宗明義章第一 章の大意、経書の読み方 - 噬嗑録
  • 孝経講話01 序文 - 噬嗑録

  • 論語と孟子の関係について - 噬嗑録

    ツイッターで論語に関する質問を募集したところ、さっそく以下の質問が寄せられた。 伊藤仁斎先生の論語古義では、 「孟子七篇の書物は論語の註釈である。だから孟子の意味が分かって初めて論語の意義を明らかに出来る。」 とあります。 この仁斎先生の意見に対してのお考えをお聞かせください。 論語古義は未読であるので、この部分(訳)だけを読んで思うところを率直に述べてみる。 仁斎先生の意見はその通りと思う。 しかし、考え方の向きによって、解釈を大きく誤りそうな感じもする。 訳が不親切ではないかと思う。 「孟子の意味が分かって初めて論語の意義を明らかに出来る」の解釈には、 孟子が分かれば論語も分かる 孟子さえ分からないようでは論語も分からない の二通り考えられる。 1は誤り、2は正しい。仁斎先生は2の意味で仰ったものと思う。 この訳では、1にも捉えることができるから危ない、と感じる。 1は、どうかすると「

    論語と孟子の関係について - 噬嗑録
  • 鮮血淋漓の学問がしたい~古写本論語の重要性~ - 噬嗑録

    論語には、色々ながある。 もちろん、元はお弟子たちが作った唯一のものがあったが、長い歴史の中で様々なものが生まれた。 中には意味が通じないものや、解釈の疑わしいものがあるから、儒学を学ぶうえで障害になりやすい。 ではどうするか。 一冊にこだわらず、色々な人の解説した論語を読んでみるのが良い。 特に、日の古写論語(こしゃほんろんご)を底にしたものを読むと、驚くほど理解が進む。 論語の問題点 誤写が生じる 戦禍に見舞われる 散逸しやすい性質 長い歴史の中で混乱に陥る 古い写を学ぶべし 古写論語とは 日伝来以降の中国論語の混乱 古写論語の純粋性 古写論語で蒙を啓く 古写論語で理解が進む具体例 「彼なるかな」では意味不明 「佊なるかな」で意味が通じる 子西という人 子西を惜しんだのではないか 私的解釈 末路を言い当てる孔子 鮮血淋漓の学問がしたい 論語の問題点 昔は紙がなく、印

    鮮血淋漓の学問がしたい~古写本論語の重要性~ - 噬嗑録
  • 「士」に関する問答 - 噬嗑録

    ツイッターをやっているが、さほど意味を見出していない。 勉強などしていて、深く感じるところがあると書く。 ほとんど独り言のようなもので、誰かに意見を求めるでもなく、自分で感じたままに書いている。 理解を促そう、人にもわかってもらおうといった意識は薄く、誰かに疑問を呈されることを前提としていない。 数日前にツイッターで発言した内容について、思いがけず質問をいただいた。 自分では全く疑問のないことばかりツイートするが、そこへ疑問を投げかけられ、再度よく考える機会を得た。 興味深いやり取りであったが、発言が切れ切れになるツイッターではまとまりが悪く、言い尽くすことも難しい。 自分なりにまとめておきたいと思った。 質問していただいた方の了承も得たので、記事とする。 ツイッターでのやり取り 私の発言 いただいた質問 「士」とは何か 身分としての「士」 「士」はどうあるべきか 仁義は対象で変化する 仁

    「士」に関する問答 - 噬嗑録
  • 時習と喜び - 噬嗑録

    論語には有名な言葉がたくさんある。 通読したことがない人でも、しばしば論語の名句を知っている。 そのひとつが、論語の冒頭の章句、「学びて時に之を習う」である。 子曰く、 ①学びて時に之を習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや。 ②朋(とも)有りて遠方より来る、亦た楽しからずや。 ③人知らざるを愠(いか)らず、亦た君子ならずや。 原書では①~③をまとめて一つの章句とするが、ここではあえて3記事に分ける。 この章句は大変重要なものであり、下手に要約などすると却って意を損なうからだ。 まずは①を取り上げる。 師について学ぶべし 師につかず学ぶは例外 学問が捗らない 曲解に陥りやすい 現人に教えを請わぬは仕方なく 学の意味 習の意味 習の成り立ち 羽への信仰 マヤ文明と羽 古代中国と羽 子路と羽 羽で繰り返しこする 学ぶ喜び 分かるから面白い 図解がウケる理由 図解はドラッグのようなもの 図解

    時習と喜び - 噬嗑録
  • やりたいこと - 噬嗑録

    私には、明確な人生計画がない。 そういったものを立てたところで、天命と異なれば実現には至らない。 まだ天命の自覚がない。ならば計画はなくて当然であって、極く自然なことと思っている。 漠然とした理想はある。 住むならば田舎の平屋で、山の麓が良い。 周囲に人がいない、ぽつんとした一軒家が良い。 自動車もほとんど通らず、鳥や虫の声、雨の音、木々が風に吹かれる音などがよく聞こえるのが良い。 庭は広いのが良い。家庭菜園にしたい。 自分でべるためにも野菜を作るが、べるよりずっと多く作る。 それをべに、山から鹿や猪が来るようなのが良い。 粟や稗、黍なども作り、実ったら庭に散らかしておく。鳥がやってくるだろう。 家は小さくて良い。 書斎、土間、客間があれば良い。 書斎は小ぢんまりとしていて、経書の類はしっかり揃っている。雑多なはない。 そこで日々学び、執筆にも取り組む。 客間には囲炉裏があると良い

    やりたいこと - 噬嗑録
  • 克己復礼にみる孔門の気骨 - 噬嗑録

    論語の有名な言葉に「克己復礼(こっきふくれい)」がある。 論語を読んだことがない人でも、この言葉は聞いたことがあるのではないか。 克己し、復礼し、仁に至る。 最近、このことをあれこれ考えていた。 自分なりに結論を得たので記事にする。 顔淵の問い 入門当初の問答か 克己とは 己とは 克己は克身なり 欲望は身に起こる 仁とは天稟の精神 復礼とは 礼は自ら復るもの 復礼はどうするか 礼で防ぐ 孔門の気骨 復礼の厳しさ 非礼から目を背けぬ ツイッターの真価とは 顔淵の問い 論語顔淵篇の冒頭で、顔淵(がんえん)が孔子に問う。 「どうすれば仁になれるでしょうか」 孔子は、 「己に克(か)ち、礼に復(かえ)ることだ」 と仰った。 入門当初の問答か 亜聖と呼ばれた顔淵である。孔門で仁を得た人だ。 その顔淵が仁を問うている。 仁を得た後、さらに問うことはないだろう。 したがって、これは顔淵が入門当初の問答で

    克己復礼にみる孔門の気骨 - 噬嗑録
  • 牛のけつ - 噬嗑録

    儒学をやっていると、なにぶん古い時代のことであるから、色々なことについて「果たしてそれは事実であったか」という問題が出てくる。 例えば、舜(しゅん)が実在したかどうかを問題にする人がいる。 このようなものは儒学の質にはあまり関係のないことだが、とかく問題にしたがる人がいる。 以前、私もこれを意識しないではなかった。 そういう人を「牛のけつ」という。 明治の禅僧に南隠(なんいん)という人がいる。 公田連太郎先生はこの人に禅を学ばれた。 公田先生は若いころ、漢学を根通明先生に、禅を南隠禅師に学ばれた。終生この二人を師と仰ぎ、晩年に至っても先生の書斎には根先生・南隠禅師の写真が掲げてあったという。 この南隠禅師に面白い話がある。 あるとき、仏教学者が南隠禅師を訪ね、日ごろの研究の成果をしゃべりまくった。 特に、達磨(だるま)と慧可(えか)のことを大いに喋った。 その学者が言うには、 「私の

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