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河合隼雄に関するmisukeのブックマーク (3)

  • My Life Between Silicon Valley and Japan - 取り返しはつかない

    深く深く共感する文章と出合った。 新潮9月号に掲載された養老孟司「追悼河合隼雄 取り返しはつかない」である。 河合隼雄さんの訃報を聞いた。病床におられることはわかっていたし、多くの方と何度か河合さんの病気の話はしたから、いまさら驚くことではない。ただなんとなく腹立たしい思いがないではない。なぜ文化庁長官なんか、長いことやらせたのか。 高松塚古墳の絵にカビが生えたという問題があって、河合長官が頭を下げてまわったという話を、風の便りに聞いたような気がする。そんなことがなくても、そもそも他人のストレスを解消するのがお仕事だった。 もったいないなあ。この世間は当にもったいない人の使い方をする。 河合さんのように滅多にない才能をバカな仕事に使いやがって。ついそんな気がしてしまう。 この世間で好きな仕事をしようと思ったら、必要なことはするしかないが、義理は欠くしかないということである。司馬遼太郎は「

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  • 河合隼雄先生のこと: 極東ブログ

    直接学んだことはないが、河合隼雄先生とお呼びしたい。その思いをこのエントリに書いておきたい。19日にお亡くなりになった。脳梗塞であったという。享年七十九。昨年夏にご自宅で脳梗塞の発作で倒れたというニュースを聞いたとき、ご高齢でもあるし不安に思っていた。 先生は1928年、昭和3年の生まれ。昭和の昭坊よりは若い。私の死んだ父が星新一と同じく大正十五年、1926年の生まれ。昔見た父の同窓会名簿に戦死の文字がずら並んでいたのに驚愕したことがあるが、父は大病を得て命を得た。彼の年代が戦争中派の境目で、河合先生はそこを逸れる。 ウィキペディアの「河合隼雄」(参照)項目を引く。 1952年、京都大学理学部を卒業後、数学の高校教諭として働く。その学校現場で生徒達の心の問題に直面することとなり、その後、京都大学大学院で心理学を学び、1959年にフルブライト奨学生としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UC

  • 茂木健一郎 クオリア日記: 河合隼雄先生のこと

    河合隼雄先生のご逝去の報に接し たことは、私にとって深い悲しみ となりました。 河合さんのこぼれるような笑顔に 接して、親しくお話させて いただいたことは、私の人生の 何よりの宝物です。 河合さんの京都のクリニックを訪ね、 箱庭を作り、分析して いただいたこと。 朝日カルチャーセンターの対談で、 「中心を外さないこと」の大切さを 教えていただいたこと。 タクシーの運転手が、お客さんが 河合さんと知らないままに、 いつの間にか人生の打ち明け話を 始めてしまい、 気が付くと全然違う場所に 着いていたということが 何回もあったという、その 不思議な魅力に満ちたお人柄。 相づちの打ち方や、何気ない言葉の 返し方の中に、深みを持った 叡智が感じられました。 もっとお話させていただきたい、 教えを受けたいと願っても、 それを果たすことができません。 ここに、生前のご厚情を偲んで 心からご冥福をお祈りい

    misuke
    misuke 2007/07/21
    箱庭の写真がある、
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