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finalventに関するmisukeのブックマーク (18)

  • みんなでプーチンを呼び捨てにする昨今: 極東ブログ

    ロシア下院選挙について大手紙の社説が揃ったが、面白くなかった。もともとロシア下院選挙自体がつまらないから、そんなものとも言えるのかもしれないが、日のジャーナリズムは反露というか嫌露という印象を受ける。そういえば、先日のクローズアップ現代で解説の大学の先生がプーチンプーチンと呼び捨にしていた。他国の大統領ではそういうこともないのではないか。日のジャーナリズムは対ロシアとなると拙い感情面が出ているようだ。大手紙社説を順繰りに眺めてみよう。 まず読売新聞社説”ロシア下院選 退任後の基盤固めたプーチン”(参照)だが、旧ソ連時代のような冷戦的な構図を描いて日のスタンスを問うといった雰囲気だった。 選挙結果を受け、プーチン大統領は、従来路線を継続、発展させながら、大国ロシアの真の復活を目指すだろう。その際、対外的に強硬姿勢を取る誘惑にかられる機会も増えるのではないか。 プーチン大統領は下院選の直

    misuke
    misuke 2007/12/07
    とはいえ何度も声に出して呼んでみたい語感ではある。プーチンプーチン。
  • [書評]カラマーゾフの兄弟(亀山郁夫訳): 極東ブログ

    爽快に読める亀山郁夫新訳が全巻揃うまで読書開始は待とうと思っていたが、最終巻を期待していた春頃、なかなか出ないので、よもやまたかという懸念があったが、7月に5巻で完結した。訳者の苦労に感謝したい。そして50歳になってこのが読めたことを深く自分の人生の喜びとしたい。 大げさな言い方だと自嘲もするし、私など些細な存在だが、この書籍に呪われたような人生だった。私はある意味では早熟でクラソートキンの歳でこの作品に挑んだ。旺文社文庫箕浦達二訳で読み始めたのだった。ロシア語はわからないが(それでも大学で学んだっけと思い出す)良い訳だった。が、二巻までしか出版されなかった。その後旺文社文庫自体が消えた。魯迅もプラトンも鴎外も漱石も私は旺文社文庫で読み、学んだ。 いつの日か箕浦訳が出ると確信していて3年が過ぎ、5年が過ぎ、10年が過ぎた。アリョーシャの歳にもなった。そしてその歳も過ぎた。しかたなく継ぎ接

  • 吉本隆明が娘に言った恋愛のこと - finalventの日記

    正確な言葉ではないが。 一生のうちに一人くらいはいる。いなかったら残念な人生だったとあきらめるしかない。 だったか。 40前だとよいのだろうけどね(ずこずこおセックスとか楽しめるかもだし)。 ちなみに。 人生は名言に極まらずであって。 吉親子の人生はその定理を証明したようなもの。 蛇足。 吉翁が言ってことだが、人は一生懸命生きようとすると、これしか生きられないという不可避の細い一道しか現れない。 たぶん、その細い一がどっかで交わるってことか。 平行線に針を落とした交点の確率が円周率になるというのは証明されていたのだっけ。 まあ、人間の経験世界は証明というより、たぶん、死の形を先取りした、ある種の超越的な型どりのようなものが現れる。

    吉本隆明が娘に言った恋愛のこと - finalventの日記
  • ちょっとだけ - finalventの日記

    ⇒【2ch】ニュー速クオリティ:うまい鶏肉料理教えて ⇒はてなブックマーク - 【2ch】ニュー速クオリティ:うまい鶏肉料理教えて 私が言えるもんでもなし、すべてがそうだというのでもないのだろうが、調理の基が違っているという印象を受けた。 逆に、料理というのはある種の基があれば、調味とか、いわゆる調理というのはどうとでもなると思う。 話がずれて。 ネットを見ていると、お料理好きの人というのは多いし、アマゾンのキッチンの評を見ると、なかなか強者揃いなのがわかる。 が、はてなとか2ちゃんまとめとかから見ると、料理の基がないんだろうな、この人たちは、と思うことは多い。 私の母親は昭和一桁だが、率直に言って、料理はへた。ただ、主婦というのはそれなりにうまくやると言えないこともない。料理の基はまるでできていない。というか、この年代は、魚も肉も調理の仕方を知らない。その後は団塊世代になっていく

    ちょっとだけ - finalventの日記
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    misuke 2007/08/22
    調理と外食の話。「外食ではまともに食えない」
  • 失敗から学ぶべき2つのこと - finalventの日記

    ⇒FPN-失敗から学ぶ人、学ばない人 失敗から学ぶべき最大のことは、意外に、「それは忘れたことにしよう」だったりする。 次に学ぶべきことは、意外に、「偶然失敗したのかもしれない」ということだったりする。

    失敗から学ぶべき2つのこと - finalventの日記
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    misuke 2007/08/21
    同意。
  • 河合隼雄先生のこと: 極東ブログ

    直接学んだことはないが、河合隼雄先生とお呼びしたい。その思いをこのエントリに書いておきたい。19日にお亡くなりになった。脳梗塞であったという。享年七十九。昨年夏にご自宅で脳梗塞の発作で倒れたというニュースを聞いたとき、ご高齢でもあるし不安に思っていた。 先生は1928年、昭和3年の生まれ。昭和の昭坊よりは若い。私の死んだ父が星新一と同じく大正十五年、1926年の生まれ。昔見た父の同窓会名簿に戦死の文字がずら並んでいたのに驚愕したことがあるが、父は大病を得て命を得た。彼の年代が戦争中派の境目で、河合先生はそこを逸れる。 ウィキペディアの「河合隼雄」(参照)項目を引く。 1952年、京都大学理学部を卒業後、数学の高校教諭として働く。その学校現場で生徒達の心の問題に直面することとなり、その後、京都大学大学院で心理学を学び、1959年にフルブライト奨学生としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UC

  • finalventの日記 - 社会に出た後で学んでおくべき12のこと

    社会に出て3年以内に貰えるおカネでバイト料より多い分は会社側の失費だということ 年上で無能に見える人はあなたより生存適応能力が高いということ 社会というのはサービスの関係だけどなんとなく心の関係のフリをするところだということ 貰ったカネを全部使わないこと、貯めたカネの使い道を考えておくこと マジで悪人や不運にぶつかっても最終的に助けてくれる人はいないということ つらいことをやっていてもそれに慣れてしまうものだということ(いい悪いなしで) 病気になったら社会から放り出されるということ コミュニケーションは技術より人柄とモラルだということ 会議を効率的にやる必要はなしだということ(それなりの理由があってそうなっているのであってあなたは基的に招かれざるお客さん) 異性との距離の取り方を自分なりに覚えること、もっと言うとフツーの人は清潔っぽくて普通に話せるならそれで十分 人があなたに話しかけやす

    finalventの日記 - 社会に出た後で学んでおくべき12のこと
  • はてなQより どうやって生きて行けばいいかわかりません。 - finalventの日記

    ⇒どうやって生きて行けばいいかわかりません。 人には、「偽善者」「自分を大切にできない人」「エゴが無い」「変にまじめ」「ながされっぱなし」と言われます。職場ではつ.. - 人力検索はてな 私が回答するとすれば。 目をつぶって一歩だけ前に進みなさい。 どうやって生きていけばいいかわからないときは、実は思念や人間関係などで自縄自縛的になっている。もうどうにも動けないものだ。 そんなときは、きゅっと目をつぶって一歩だけ前に進む。 目をつぶらなければ前に進めない。 悩むのを無理でもやめなければ前に進めない。 そして一歩進んだ足に重心を置いて、ちょっと振り返って片目を開ける。 あなたを縛り付けていた愛情や悲しみや人々が、実は、あなたを必要としていないことにふと気がつけば、もう一歩目をつぶって進む。 そして、自分を縛ってきたものから自由になり孤独になり、目をあけて前に進んでいく。 抽象的かな。 いろい

    はてなQより どうやって生きて行けばいいかわかりません。 - finalventの日記
    misuke
    misuke 2007/06/16
    「あなたを縛り付けていた愛情や悲しみや人々が、実は、あなたを必要としていないことにふと気がつけば、」わかっているけどそれを認めるのが怖くて前に進めなかったりする...
  • [書評]森有正先生のこと(栃折久美子): 極東ブログ

    大人にしかわからない上質な苦みのある、美しく同時に醜悪な恋愛小説のように読んだ。五十五歳の知的な男に三十九歳の才能のある女が十年ほど恋をする物語。さりげないフレーズに当の恋愛にはこの感触があると何度も煩悶のような声が自然に喉を突く。恋愛といっても、肉体的な交わり……少なくとも肉体の哀しみと歓びは表向き描かれていない。その契機が存在してなかったようにも読める。が、この物語の質はキリスト教のいう肉、サルクスというものの、胸引き裂かれるような絶望感にある、と思う。 小説ではない。森有正という男と栃折久美子という女の現実の物語だ。私もこの物語のある重要人物を知っていたので、この物語のごく一部だが魔法のように織り込まれたような感覚を味わった。しかし森有正という男を知らない今の日人でも、大人ならこの物語の味わいがわかるのではないか。と、自分がさも大人であるかのように書くのだが、そういう大人とは大

    misuke
    misuke 2007/05/10
    現実の大人の恋は狡猾に隠蔽された幻滅感と気まぐれな傲慢さのなかでいつか静かに終わるものだ。
  • わすらるる身をば思はず - finalventの日記

    増田に告って成就せずの話があり。まあ、そういうこともあるのでしょう(-_-) わすらるる 身をば思はず ちかひてし 人の命の をしくもあるかな 右近 わかるようなわかんない歌だ。なにか背景というか呪術というか風習なりがあると思うのだがわからない。 ただ、言葉の響きは右近に遠い未来である私にも伝わる。人はみな、わすらるる身をもって生きている。なぜこの世界に「私」がいて、私からしか世界が見えないのに、世界や他人の世界は、私のことを忘れて過ぎていくのだろう? いや、そういう私が他人のことを忘れていく。今朝、ある恩師の名前を忘れて、必死こいてサーチした。ネット役立たずだったが。 この歳こいて色恋というのもばっちい感じがするが、また私なんぞツンドラ的世界に生きた人間の言うこっちゃないが、忘れる恋、忘れられない恋、まあ、いずれ忘れるのだけど、その違いはなんだろうと思う。そして、恋てふものは相手様のある

    わすらるる身をば思はず - finalventの日記
    misuke
    misuke 2007/05/07
    忘れるというのは、それが過去になったということだし、たぶん、同カテゴリーで上書きしているのだろう、(中略)けっこうな人がそうして生きている。そうして生きられない人もいる。
  • まあ、続きというか - finalventの日記

    どんなに悲しいことでも、今悲しいのでなければ(という言い方が曖昧だけど)、悲しかったのは過去だ。死別も、傷つけられたことも過去。 そして、たいていは、悲しいというのは、過去を悲しむ、というか、記憶を悲しんでいる。もっと正確に言えば、不在を悲しむ。悲しみの対象は、無だ。 しかし、実際の悲しむというのは感情のエネルギーだし、むしろ身体的を巻き込む情念に近いものだが、過去=不在を悲しんでいるとき、実は、こっそりと思考はトラップを嵌めているから悲しみが知覚される。 思考は、過去をこっそり修正しようとして、それができなくて、感情を巻き込んで、悲しませている。 それは過去なのだ、不在なのだ、どうやっても取り戻すことはできないのだと、いくら思考的に理解しても、たぶん、思考はそれでもこっそり過去を修復しようとする。未来において、達せられなかった、傷つけられた過去を、修復しようとする。 (愛されたかった、と

    まあ、続きというか - finalventの日記
    misuke
    misuke 2007/04/24
    事実は、過去は戻らないということ、死んだ人は生き返らないということ。失われた愛も、戻らない(ただ、それは修復できそうにも思えるが)。
  • マインドフルネスとしての仏教: 極東ブログ

    先日のエントリ、「極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ」(参照)関連の補足というか余談のような話だが、きっかけはこのエントリにコメントしていただいた、dankogaiさんの404 Blog Not Found”書評 - 仏教は心の科学”(参照)である。私の該当エントリの問い掛けについて、こう答えられていた(余談だが、実は私が想定していたのは輪廻に関連したことであったのだが)。 書はこういう疑問を抱く人のために書かれたのだから。 書「仏教は心の科学」は、スマナサーラ長老の法話集。と書くと、最近とみに増えてきた「Yet Another 仏教」という印象を受けるかも知れないが、「元祖仏教」、いやブッダの言葉は実に 404 Blog Not Found:ブッダ―大人になる道 実に単純で明快で痛快 なのである。 として、スマナサーラの著作を「仏教」ないし「元祖仏教」として紹介されている。ま

  • 極東ブログ: 営業力かぁ

    今の若い人に足りないのは営業力という話を先日ネットで見かけ、営業力かぁ……と考えることがあった。SEとかも事実上営業だしなとか。営業の仕事って今どうなっているんだろ。 私は営業の修羅場にいたことはないが、若造だったころ短期間というか不定期にその端くれにいたことがある。年配のおっさんとペアだったこともあり、これは実地で学ぶ技術だなと思った。 営業の技術は体系的な知識にまとめられる部分もあるのだろうが、なんともうまく言葉にならない部分もある。人柄が勝負ということも多い。あるいは、そういう人柄のようなインターフェースを作る技術かもしれない。 ペアだったおっさんはそうした「人柄」を顧客には見せたが、私にはビジネスライクでそれほど見せなかった。私がとっつきにくい若造だったからだろうが、あるとき、ぼそっと「やる気があるなら君には営業の才能があるよ」と呟いた。自分がそのころのおっさんの歳になりなんとなく

    misuke
    misuke 2007/04/10
    営業力とは何か? 私に答える経験も能力もないのだが、それでも一言で言えというなら、「納期に対する責任」と答えるだろう。
  • たとえば - finalventの日記

    こだわっているみたいだが、まあ、もうちょっと語ってみるか。 きっかけ⇒知性なき「はてな」−の読めない技術者・伊藤直也 (セックスなんてくそくらえ) まともにものを考えようとする人間がしなければならないこと。 それは愚劣なものを愚劣と呼び、美しいものを美しいと呼ぶことである。さもしく卑しいシステムが育む知性無きコミュニティを、嘲笑も、あざけりも、傲慢さもなく、ただ愚劣であると呼ぶことである。たとえそれが愚かきわまりないブロゴスフィアであろうとも同じことであり、文盲とフェミニストとfinalventがのさばるこの世界、つまり「バカ」や「(笑)」という幼稚でつまらない単語を使わねばバカにされていることすら気がつかない人々で構成されるブロゴスフィアにおいても、知的であるということは困難であるが、やはり必要なことでなのである。 finalventがのさばっていないのは、このブクマ数を見てごらん。

    たとえば - finalventの日記
  • カネと時間の相対性理論 - finalventの日記

    増田⇒【カネより時間を大切にせよ】一秒一円、一時間3600円、25億秒25億円 時間というのは若いときと歳ってきたときとは違う。 これはけっこう複雑な問題で、よく世間に言われるのと、微妙に違う。つまり、歳を取ると時間が速いしみたいな。まあ、確かに速いが。 若いころは暇で退屈でカネがなかった。今の子もそうかもしれない。 無名で、能力がなくて、カネがなくて、暇、まあ、それこそが若さといえば若さだけど、それに戻りたいか? 歳ったなと思うのは、痛烈に身体的には若さを回復したい気持ちはある。残念ながらというか。心がうまく老いないのだ。云々。 ただ、なんつうか。 若い時の暇ってなんだろと思う。3時間なんてほんと苦痛なくらい暇なんだよね。なのでなんかしちゃう。快感とか刺激が欲しい。 今だと3時間暇になるとほんと嬉しい。 で、若い時はカネがない。でも、ちまっとカネ使う。 今は、カネはないといえばないけ

    カネと時間の相対性理論 - finalventの日記
  • 大企業に勤めるとか - finalventの日記

    経験ゼロではないんだけどね。あれなんですよね、大企業っていうのは、体部門は工場とかだったりして、インテリジェンス部分は系列に分散して……云々。で、それら全体が一種連合体なんだけど云々。 で、大企業に勤めるなんだが。 うーむ、なんだかわからない。 公務員なんかも大企業と似たようなもの。 なんつうか一種の村社会みたいなものというか。 いわゆる能力のある人間は潰れるようにできているというか。そういうの求めてないっていうか。 ただ、もう私が見える日は今の日ではないでしょう。 仕事あるいは研究とか大学とか、まあ、なんつうか、そういうのはあるわけだけど、プライベートのセクターはなかなか簡単にはいかない。 自分がどう生きるか、どう働くかというのは、依然、うまく答えられるものでもない。 ふと思い出すのだが⇒読売新聞 2006年12月7日 「出口は必ずあると、親や教師らが子どもたちに伝えてほしい」。大

    大企業に勤めるとか - finalventの日記
  • まあ確かに - finalventの日記

    増田⇒■ それから半年が経つ。やはり父は偉大だった。時代のせいもあるのかもしれないが、この過酷な職業に良く耐えられたものだ。先日、あまりの不調にかかった医者に、軽度の病と診断された。 そんな私の現時点での考え。 不器用で、内向的な人間が、幸せに生きられる場所なんて、この世に、ない。 努力しても、変えられないものが、ある。 まったくそのとおり。 ただ、早世されたお父さんはあなたが幸せになってほしいと願っていたと思う。あるいは比喩的に言えば願っていると思う。 それに応えてみようとしてもいいかもしれない、と少し思う。 思い出。若い頃に、年上のきつい友人によく言われた、「お前はお前さんという人間を救ってごらん」、と。自己を自己で救済することはブートストラップ的な不可能なアポリアだろう、まあ、そこまでは少しものを考えればわかる。 そして、絶望というのは、少しものを考える人間なら、パチンコの玉が下の

    まあ確かに - finalventの日記
  • 間違った生き方があるのか、本当の生き方があるのか、わからない - finalventの日記

    ただ、関係のなかで人は「罪」足りえる。 だけど、「罪」は許されうるかもしれないのに、その「罪」を逃れることで「愛」の可能性を失うこともあるのかもしれない。 そこが生きることの難所のようにも思うし、そうした難所にある人をあまり他人事には思えない。 でも、それは、語れば、欺瞞。人は、「罪」と「愛」の括弧を外して生きなくてはならないのだから。 私はこうしたことを考えるときティリヒを思い出す。 ティリヒはなぜこんな恐ろしいことを言うのだろう。 批判者になったり、反逆者になったりすることは、それほどむずかしすぎるなどということはありません。しかし、何かに対して妥協しない、自分に対してすら妥協しないで、しかも偶像礼拝に対する神の審きを告げることはたいへん困難です。その勇気ある行為が、苦難や殉教を招くかもしれないからというのではありません。失敗の危険を含むからです。私どもの意識のなかにある何かが、つまり

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