1965年に私が沖縄に行ったのは、沖縄で米軍がやっていることを知らせるためでした。 25歳の時です。米軍占領下の沖縄のことは、本土では全くわかりませんでした。米軍が統制していたからです。 沖縄が日本でないことをまず思い知らされたのは、飛行機の中でした。沖縄本島が眼下に見えはじめると、スチュワーデスが「カメラをしまって下さい」。撮影が禁止されました。一人でも写真を撮るものがいると、フライト自体が許されないのです。 4月中旬、私は祖国復帰行進団といっしょに、本島最北端の辺戸岬に向かって歩いていました。中部の嘉手納基地にさしかかった時、行進団の人に、「持っているだけで逮捕されるし、行進団にも弾圧がかかるから」と、カメラを預けるように言われました。 4月20日、宜野座村に入りました。小学校で休憩に入ったとたん、「子どもがひき殺された!」。なんと行進団の目の前で、小さな女の子が米軍のトラックにひき殺
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