戦国時代、大友宗麟は九州の大半を制した戦国大名です。勇猛で知られる島津氏も、ある時期まで大友氏に敵いませんでした。 大友宗麟と織田信長の共通点は、両者ともキリスト教の宣教師を大事にして、西洋の進んだ技術を積極的に取り入れたところです。 しかし、宗教に対する基本的な考えには、大きな違いがありました。その違いが宗麟と信長の運命にも現われてくるのです。 仏教寺院を破壊した宗麟 大友宗麟は、キリスト教に対する信仰心が厚かったのかどうかは不明ですが、洗礼まで受けました。洗礼を受けた後の「耳川の戦い」で大敗します。 耳川の戦いは、大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)で激戦をくりひろげた戦です。 この大敗の後、大友宗麟の勢力は急速に衰退していきます。後に臼杵城に籠城して、滅亡寸前になりますが、豊臣秀長の軍によって救われます。 大敗の原因はいろいろあります。足利義昭の工作による毛利や
![大友宗麟と信長の宗教への考え方の違いとは? - みずおのアレコレ話](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/1efed7dd4c97ec1e8bea8dd6a9170a9a461b24b0/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fcdn-ak.f.st-hatena.com%2Fimages%2Ffotolife%2Fm%2Fmizue338%2F20170223%2F20170223225939.jpg)