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essayに関するmkzkのブックマーク (8)

  • 50代がさっぱりわからない - シロクマの屑籠

    ゆうべ、文章をなにも書かなくなった夢を見た。無気力な、何をすればいいのかわからなくなった未来の自分が、消極的に、もっと業に取り組むかと呟いているのが物悲しかった。もちろんこんなのは業に精力的に取り組む人々には当てはまらない、私の文脈内部にしか当てはまらない物悲しさだ。私は人生の半分以上、文章を書きながら生きてきた。だからなにも書かなくなった自分とは、人生の荷物の大事な部分を落としてきた自分のように思える。 年を取るということがわからなくて、年を取るということを少しでも知って、うまく立ち回りたくて、不安を軽減させたくて、私は努めてきたつもりだった。だというのに今の私は書くことがわからず、年を取ることもわからなくなっている。精神疾患になっているとは思わないが、いつ頃からか、迷いの季節に突入したな、と思う。 思えば30代後半〜40代前半は、自分の立ち位置と立ち回りのうえで便利な時期だった。も

    50代がさっぱりわからない - シロクマの屑籠
  • 「ショートソング」に魅せられて|本屋の時間|辻山良雄

    いま、短歌にあたらしい波がきている。いや、短歌だけではなく、詩、俳句、川柳といった、短い形式の詩すべてが変革期にあると感じるが、特に短歌ではその傾向が顕著だ。自らの感情を、日記をつけるように歌にして、気軽に発表する人が増えている。それを読むのも、いわゆる〈愛好家〉とは違う、ふつうの人たちだ。 そうはいっても、短歌というものに普段接していない人にとってみれば、あまりピンとこない話かもしれない。参考までに手元にあった歌集から、いま作られている歌をいくつか紹介してみよう。 春だねと言えば名前を呼ばれたと思った犬が近寄ってくる 服部真里子 ファミレスを出たら漫画のような夜 漫画のようにファミレスの光 岡野大嗣 春のパンまつりのシールがキッチンの片隅で二度目の春を知る 島楓果 いずれの歌も、まずはその光景があざやかに広がり、その後その場の空気、そこに流れた時間があとに続く。そしてもう一度、今度は意味

    「ショートソング」に魅せられて|本屋の時間|辻山良雄
  • 恩田陸 - Wikipedia

    恩田 陸(おんだ りく、1964年10月25日 -)[1]は、日小説家。名は熊谷 奈苗(くまがい ななえ)[1]。青森県青森市生まれ(宮城県生まれとされることもある[2][3])。 『六番目の小夜子』(1992年)でデビュー。ホラー、SFなど枠にとらわれず、郷愁を誘う情景描写に定評がある。『夜のピクニック』(2004年)で屋大賞、『蜜蜂と遠雷』(2016年)で直木賞・屋大賞を受賞。 来歴[編集] 1964年(昭和39年)10月25日、青森県青森市で生まれる[4]。1966年(昭和41年)頃に愛知県名古屋市へ移住[5]。その後の幼児期と松市立清水小学校1年まで長野県松市で過ごした[6]。1972年(昭和47年)に富山県富山市へ移り、小学2年から5年まで富山市立五番町小学校(現:富山市立中央小学校)に通った[7]。小学2、3年生の時にロアルド・ダール『チョコレート工場の秘密』を読

  • ファミコン版ウィザードリィの素晴らしさと、あの時代の位置づけを思い出す - シロクマの屑籠

    Sandstorm:ウィザードリィの「評価」を、改めて考える - livedoor Blog(ブログ) リンク先の記事を読み、PC-9801版『Wizardry』との出会いと、ファミコン版『ウィザードリィ』に熱狂していった記憶を思い出した。いてもたってもいられないので、当時のファミコン小僧がどんな風に“ロールプレイングゲーム”と付き合っていたのかも含めて書き留めておく。 1.私がPC-9801版の『Wizardry』に出会ったのは小学校時代の終わり頃だった。「『ドラゴンクエスト』や『ブラックオニキス』よりアイテムやモンスターの種類が多くて、“格的な”ロールプレイングゲームを買った」と友人が話していたので、どんなものなのか見に行った。 六年生だった私にも『Wizardry』のうわさ話は届いていた。少年ジャンプでファミコンゲームのレビューを書いていた『ファミコン神拳』の評者*1が、この『Wi

    ファミコン版ウィザードリィの素晴らしさと、あの時代の位置づけを思い出す - シロクマの屑籠
  • 岡山で私を育ててくれたカルチャーのこと(文・ゆっきゅん) - SUUMOタウン

    著: ゆっきゅん 私が岡山県に住んでいたのは2014年春の高校3年生までです。高校は進学校で土日も部活か勉強、外もあまりしない家庭で、友達と話す場所といえば「ハローズ」のイートインコーナー、放課後に遊ぶならローカルカラオケ「サウンドビート」、略してサンビだった。 だから観光に勧められるような岡山のスポットに詳しいとは到底言えないけれど、それでも私は岡山県の岡山市(実家はわりと中心部でした)のなかでできる限り積極的にカルチャーを享受してきたように思います。 上京を決めたのは高2のとき。でも、それまでもずっと当は、芸術文化の真ん中に飛び込むことを望んでいたんだろうと感じます。岡山に大きなイオンがオープンする直前に上京した私。その記憶を辿りながら、私の過ごした岡山の街を紹介します。 メルパとシネマ・クレールが教えてくれた映画たち 私が初めて自分が「これ、どうしても観に行きたい!」と母親にお願

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  • 二日前のザ・ノンフィクションの感想 あるいはおれが自死か孤独死する理由 - 関内関外日記

    この間の日曜日、フジテレビの「ザ・ノンフィクション」を観た。ネットでの(いや、もう違うか?)有名人phaさんが採り上げられていた。通常、おれはその時間、なぜか東幹久が司会をする競馬番組を観るのだが、気になって「ザ・ノンフィクション」を観た。 おそらく、phaさんも小林銅蟲さんもおれと同年代だ。ニートとして生きる。少ない収入でも居場所を作る。それが新しい様式なのか、名称を変えてきたある種の生き方なのかわからない。おれは彼らの生き方に共感する。元ニートで引きこもりのおれ、共感するとともに、隔絶を感じる。おれは一人が好きなのだ。というか、他人と関わりたくない。よほど気心が知れた人間とでないと話もできない。 ようするにおれは先進的な生き方を志向するギークでもなんでもなく、孤独で、キモくて金のないおっさんなのだ。こればかりはどうしようもない。そして、どうしようもない未来が待っている。独り暮らしの中で

    二日前のザ・ノンフィクションの感想 あるいはおれが自死か孤独死する理由 - 関内関外日記
  • 方丈記 - Wikipedia

    『方丈記』(現代語表記:ほうじょうき、歴史的仮名遣:はうぢやうき)は、賀茂県主氏出身の鴨長明による鎌倉時代の随筆[1]。日中世文学の代表的な随筆とされ、『徒然草』兼好法師、『枕草子』清少納言とならぶ「古典日三大随筆」に数えられる。 概要[編集] 方丈庵(復元) 下鴨神社(京都市左京区)境内の河合神社に展示。 晩年に長明は、京の郊外・日野(日野岳とも表記、京都市伏見区日野山)に一丈四方(方丈)の小庵をむすび隠棲した。庵に住みつつ当時の世間を観察し書き記した記録であることから、自ら「方丈記」と名づけた。 末尾に「于時建暦ノフタトセ、ヤヨヒノツコモリコロ、桑門ノ蓮胤、トヤマノイホリニシテ、コレヲシルス」(大福光寺)とあることから、1212年(建暦2年)3月末日に記されたとされる。現存する最古の写は、大福光寺(京都府京丹波町)が所蔵する大福光寺である。これを自筆とする見解[2]、誤字・

    方丈記 - Wikipedia
  • 徒然草 - Wikipedia

    正徹・永享三年(1431年)写 『徒然草』(つれづれぐさ)は、卜部兼好(兼好法師、兼好、吉田兼好)が書いたとされる随筆。清少納言『枕草子』、鴨長明『方丈記』とならび日三大随筆の一つと評価されている。 概要[編集] 徒然草の作者 吉田兼好(『前賢故実』 菊池容斎画 明治時代) 兼好を作者とするのが僧・正徹(後述)以来、定説になっている。 成立については、室町幕府の九州探題である今川貞世(了俊。兼好の弟子の命松丸と親交があった)が、兼好の没後、草庵に残っていた原稿を編纂したと言われてきたが、疑わしい[1]。国文学者の橘純一は、鎌倉時代末期、1330年8月から1331年9月頃にまとめられたとし[注 1]、長く有力説とされてきた[1]。この説によれば南北朝の争乱以前に中年期の兼好が著したことになるが、現在は「長年書き溜めてきた文章を1349年頃にまとめた」とする説が有力である[要出典]。 序段

    徒然草 - Wikipedia
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