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歴史とJapanに関するmn36555023のブックマーク (64)

  • 康平 - Wikipedia

    康平(こうへい、旧字体: 康平󠄁)は、日の元号の一つ。天喜の後、治暦の前。1058年から1065年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。 改元[編集] 天喜6年8月29日(ユリウス暦1058年9月19日) 大極殿火災のために改元 康平8年8月2日(ユリウス暦1065年9月4日) 治暦に改元 出典[編集] 『後漢書』の「文帝寛恵柔、克遭二世康平一」より。 康平期におきた出来事[編集] 1062年(康平5) 9月 - 源頼義、安倍貞任を衣川柵・鳥海柵・厨川柵で破り、貞任を殺し、宗任を降伏させる。前九年の役終わる。 西暦との対照表[編集] ※は小の月を示す。 康平元年(戊戌) 一月 二月※ 三月 四月※ 五月 六月※ 七月 八月 九月※ 十月 十一月※ 十二月 閏十二月※

  • 天喜 - Wikipedia

    1053年(天喜元) 3月 - 藤原頼通により宇治平等院阿弥陀堂(鳳凰堂)が建立される. この年、安倍頼時の子安倍貞任、陸奥守源頼義の営所を襲う。 1054年(天喜2) 4月中旬 ‐ おうし座の方向に客星(超新星SN1054)が出現した。これによりかに星雲(M1)が生まれた。 1055年(天喜3) 3月 - 天喜の荘園整理令。 5月3日 - 六条斎院家歌合「逢坂越えぬ権中納言」成立。

  • 永承 - Wikipedia

    永承(えいしょう、(えいじょう)は、日の元号の一つ。寛徳の後、天喜の前。1046年から1053年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。 改元[編集] 寛徳3年4月14日(ユリウス暦1046年5月22日) 改元 永承8年1月11日(ユリウス暦1053年2月2日) 天喜に改元 出典[編集] 『書経』の「永承天祚」または『晋書』巻21礼志の「宜下奉二宗廟一永承中天仍上」によるという。勘申者は文章博士・平定親。 永承期におきた出来事[編集] 1050年(永承5) 1月 - 伊勢神宮の禰宜ら、神郡の民ら700余人を率いて入京し、祭主大中臣永輔の悲法を訴える。 1051年(永承6) この年、前九年の役がはじまる。 西暦との対照表[編集] ※は小の月を示す。 永承元年(丙戌) 一月 二月※ 三月 四月※ 五月 六月※ 七月※ 八月 九月※ 十月 十一月※ 十二月

  • 寛徳 - Wikipedia

    寛徳(かんとく、(旧字体:寛󠄁德)は、日の元号の一つ。長久の後、永承の前。1044年から1046年までの期間を指す。この時代の天皇は後朱雀天皇、後冷泉天皇。 改元[編集] 長久5年11月24日(ユリウス暦1044年12月16日) 改元 寛徳3年4月14日(ユリウス暦1046年5月22日) 永承に改元 出典[編集] 『後漢書』(杜林伝)の「上下歓欣、人懐二寛徳一」より。 寛徳期におきた出来事[編集] 1045年(寛徳2) 1月 - 親仁親王即位し、後冷泉天皇となる。 10月 - 寛徳の荘園整理令(新立の荘園を停止する)。1040年に、伊賀国の国司である藤原公則のアイデアによるものとされている。 西暦との対照表[編集] ※は小の月を示す。 寛徳元年(甲申) 一月 二月※ 三月※ 四月 五月※ 六月※ 七月 八月※ 九月 十月 十一月※ 十二月

  • 長久 - Wikipedia

    『老子』(七章)の「天長地久」 「天地が永久に不変であるように、物事がいつまでも変わらずに続く」ということを意味する。

  • 長暦 - Wikipedia

    この項目では、日の元号について説明しています。過去の暦日を集成した書物については「長暦 (暦)」をご覧ください。

  • 長元 - Wikipedia

    1029年(長元2) 6月 - 前上総介平忠常、下総で反乱起こす。 7月 - 但馬国百姓、関白藤原頼通宅の門外で放呼こする。 伊賀守源光清が伊豆国に配流される。 1030年(長元3) 平忠常の乱により安房守藤原光業が印鎰を捨てて帰京する。 1031年(長元4) 8月 - 藤原相通が伊豆国に、藤原小忌古曾が壱岐国にそれぞれ配流される。(斎王託宣事件) 1036年(長元9) 後朱雀天皇が即位

  • 万寿 - Wikipedia

    万寿(まんじゅ、(旧字体:萬壽)は、日の元号の一つ。治安の後、長元の前。1024年から1028年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。 改元[編集] 治安4年7月13日(ユリウス暦1024年8月19日) 甲子革令に当たるため改元 万寿5年7月25日(ユリウス暦1028年8月18日) 長元に改元 出典[編集] 『詩経』-小雅・南山有台の「樂只君子、邦家之光、樂只君子、萬壽無疆」より 万寿期におきた出来事[編集] 1024年(万寿元) 8月23日(旧暦7月17日) - 後一条天皇が一条院内裏の紫宸殿で相撲を観戦中、権右中弁・藤原経輔と蔵人式部丞・源成任が髻を掴み合う喧嘩を起こす[1]。 8月27日(旧暦7月21日) - 権右中弁・藤原経輔が蔵人式部丞・源成任を暴行し、宮中の宿所に逃げた成任を、経輔の従者たちが追いかけ、宿所を破壊する事件を起こす[2]。 1026年(万寿3) 6月17

  • 治安 (元号) - Wikipedia

    治安(じあん、(ちあん)は、日の元号の一つ。寛仁の後、万寿の前。1021年から1024年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。 改元[編集] 寛仁5年2月2日(ユリウス暦1021年3月17日) 辛酉革命に当たるため改元 治安4年7月13日(ユリウス暦1024年8月19日) 万寿に改元 出典[編集] 『前漢書』-賈誼伝の「陛下何不壱令臣得孰数之於前、因陳治安策、試詳択焉」より。 治安期におきた出来事[編集] 1023年(治安3) 12月、丹波国人、国守藤原資業の苛政を怨み、京都の邸宅を焼く。 西暦との対照表[編集] ※は小の月を示す。 治安元年(辛酉) 一月※ 二月 三月 四月※ 五月 六月※ 七月 八月※ 九月 十月※ 十一月※ 十二月

  • 寛仁 - Wikipedia

    この項目では、日の元号について説明しています。 日の皇族で三笠宮崇仁親王第1男子(1946-2012)については「寬仁親王」をご覧ください。 寛仁 (かんにん、旧字体:寛󠄁仁)は、日の元号の一つ。長和の後、治安の前。1017年から1021年までの期間を指す。この時代の在位した天皇は、後一条天皇(第68代)。 改元[編集] 長和6年4月23日(ユリウス暦1017年5月21日) 、改元。 寛仁5年2月2日(ユリウス暦1021年3月17日) 、「治安」に改元。 出典[編集] 『会稽記』の「寛仁祐云々」より。 寛仁期に起きた主な出来事[編集] 1017年(寛仁元年) 8月 - 越中国の百姓、国司の善状を提出する。 11月 - 伊勢国の百姓、国司藤原孝忠の重任を申請する。 1019年(寛仁3年) 3月27日 - 対馬国に、刀伊の入寇。4月13日までに、壱岐国、筑前国、肥前国も襲撃を受ける。

  • 長和 - Wikipedia

    『礼記』(冠義)の「君臣正、父子親、長幼和而后礼義立」より。 菅原宣義と大江通直が勘申した候補には、他に「太初」(中国の年号をそのまま使用。漢の武帝時代)、「政和」(出典は『礼記』)と長和の三つがあったが、和字が不快だが長和がよいのでは、と陣定で決まった(ここでは不快だと評されているが、「○和」という元号は日では承和から令和まで19回採用されている)。 前回の改元の際には大江匡衡が勘申した「寛仁」と「寛弘」から、寛仁がよいのだが一条天皇の諱(懐仁)と音が重なるため寛弘が選ばれたという経緯があり、それなのに今回の勘文では寛仁の出典が見つけられずに候補に上がっていないということで道長がぼやいている(匡衡はこの年の7月に死んでいる)。陣定の場でも「寛仁は吉年号なんだがなあ」と未練がましいことを言っているが、候補に上がっていない以上は選ぶわけにはいかない(道長というとワンマンという印象を持たれて

  • 寛弘 - Wikipedia

    寛弘 (かんこう、旧字体:寛󠄁弘)は、日の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1012年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。 改元[編集] 長保6年7月20日(ユリウス暦1004年8月8日) 改元 寛弘9年12月25日(ユリウス暦1013年2月8日) 長和に改元 出典[編集] 「漢書」(元帝紀賛)の「寛弘尽レ下、出二於恭倹一、号令温雅、有二古之風烈一」などによる。 寛弘期におきた出来事[編集] 寛弘初年(1004年)頃? 花山法皇を中心に『拾遺和歌集』が成立。 藤原清廉が従五位下に叙せられる。 11月、土佐国、正税の出挙基準数の減少を請う。 12月(1005年1月13日以降)、明経博士海広澄が清原広澄に改姓、明経道清原氏の発祥。 寛弘2年(1005年) 藤原伊周が初めて准大臣(大臣の下、大納言の上の待遇)の扱いを受けた。 寛弘3年(1006年) 4月2日、お

  • 長保 - Wikipedia

    長保元年(999年) 春 - 右大臣藤原顕光が部下の内蔵秋茂と紀光延に命じて、大和国添下郡の郡司だった常世澄明の私邸を制裁目的で襲撃させ、死者を1名出した[1]。 3月 - 太皇太后昌子内親王の荘園「野辺園(のべのその)」で建物火災があり、同荘園の荘官・木上正行の放火と断定され、同僚の藤原最実らが検非違使庁へ訴えたが、管轄する大和国の国府が動かず、訴えた最実の殺害計画が露見して、最実らは再び検非違使庁に訴え、山城国の追捕使、播美相奉と息長信忠に命じて木上を逮捕するよう、翌年の3月に検非違使庁が直接介入を行った[2]。 8月18日 - 大和国管轄の城下郡東郷の早米使だった藤原良信(大和守源孝道の郎等)が21人の強盗団に殺害される。 8月22日 - 朝廷からの太政官符を受けて、大和守の源孝道が介や掾、目、追捕使を指揮して捜査し、18日に殺害された藤原良信の実行犯4人を逮捕して取り調べ、首謀者が

  • 長徳 - Wikipedia

    長徳(ちょうとく、(旧字体:長德)は、日の元号の一つ。正暦の後、長保の前。995年から999年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇。 改元[編集] 正暦6年2月22日(ユリウス暦995年3月25日) 改元 長徳5年1月13日(ユリウス暦999年2月1日) 長保に改元 出典[編集] 揚雄の『城門校尉箴』の「唐虞長徳、而四海永懐」より。 長徳期におきた出来事[編集] 王朝政治史上大きな変動があった時期。改元前後に全国を席巻した疫病が起き、ついで中関白藤原道隆の薨去とそれに伴う政争があり、程なくして内大臣藤原伊周・中納言藤原隆家兄弟といった公卿が政変(年号に因み「長徳の変」と称される)によって流されるといった騒動があった。 長徳元年(995年) 2月22日、改元に付随して恩赦(重大犯罪者を除く)を行う[1]。 9月、若狭に来着した宋人を越後に移す。 長徳2年(996年) 3月28日、一条

  • 正暦 - Wikipedia

    正暦元年 - 4年 藤原道隆が摂政・関白職を歴任。 正暦元年(990年) 藤原兼家の孫・定子が入内し、宮廷女流文学が盛んになる契機を作った。 正暦2年(991年) 一条天皇が皇太后・詮子に東三条院の号を宣下。初の女院号。 出家していた円融上皇が没。 正暦4年(993年) 8月、疱瘡流行。租庸調を免除する。 正暦5年(994年) 4月、疱瘡京中に流行する。路頭に病者・死者多く、その収容を考える。 落雷により、金剛峯寺が炎上

  • 永祚 (日本) - Wikipedia

    『晋書』巻21礼志の「宜奉宗廟、永祚、与レ天比レ崇」や『旧唐書』巻89王方慶伝の「当思荅極施之洪慈保無疆之永祚」などと考えられる。勘申者は中納言・大江維時の旧勘文。 永祚元年 8月13日(ユリウス暦989年) - 近畿地方を猛烈な台風が襲い大被害が出た。この台風は永祚の風と呼ばれ、後々まで暴風雨の例えとされた。甚大な被害を理由として、翌年(990年)正暦に改元された。 永祚2年 1月5日(同990年2月23日) - 一条天皇が11歳で元服し、藤原定子が女御として入内する。 10月5日(同10月26日) - 定子が立后される。太皇太后は故冷泉天皇の后昌子内親王、皇太后は一条天皇の母藤原詮子、中宮(皇后)は円融上皇の后藤原遵子と、三后の位が全てふさがっていたため、遵子が「皇后宮」、定子が「中宮」と称される(=皇后・中宮並立の初例)。

  • 永延 - Wikipedia

    『漢書』巻75翼李伝の「永世延祚、不亦優乎」や『後漢書』巻90馬融伝の「豊千億之子孫、歴二万載一而永延」などによる。勘申者は不明。 永延元年(987年) 11月2日、身分を問わず、通貨としての銭貨を使用しない者を取り締まるよう、朝廷が検非違使に命じる[1]。 11月27日、銭貨が流通するよう、8400人以上の僧侶を動員して、朝廷が各々の寺で祈禱させる[1]。 永延2年(988年) 11月8日、尾張国郡司・百姓が、国守藤原元命の苛政を朝廷に訴えて解任を求めた「尾張国解文」事件がおきる。 12月4日、権中納言藤原道長が、式部省の採用試験官だった式部少輔橘淑信を自宅に拉致して、懇意にしていた甘南備永資の試験結果を改竄するよう、脅迫する事件を起こす[2]。 永延3年(989年) 2月、藤原元命の尾張守解任が決められる。 8月、鴨川が決壊する。

  • 寛和 - Wikipedia

    寛和 (かんな、かんわ、旧字体:寛󠄁和) は、日の元号の一つ。永観の後、永延の前。985年から987年までの期間を指す。この時代の天皇は花山天皇、一条天皇。

  • 永観 - Wikipedia

    この項目では、日の元号について説明しています。平安時代後期の僧については「永観 (僧)」をご覧ください。

  • 天元 (日本) - Wikipedia

    天元2年(979年) 5月、下野国、地方豪族の合戦を報告する。 7月、海賊を追補する。 天元3年(980年) 7月、平安京に暴風雨、羅城門が転倒する。 天元4年(981年) 円融天皇の願かけによる仏像造立を差配する臨時の宮司の斡旋により、正六位上だった美努宿禰公忠が遠江介に任官される[1]。 天元5年(982年) 伊予国で活動していた能原兼信を首謀者とする海賊集団が討伐される[2]。