海外でテロリストの人質になるとさかんに「自己責任」論が叫ばれる。他方、甲子園児の不祥事が発覚するとそのチームが不出場となる「連帯責任」も強い。「自己責任」と「連帯責任」、どちらが日本的責任のかたちなのか? 丸山眞男「無責任の体系」から出発し、数々の名著を読み解きつつ展開する、「在野研究者」による匿名性と責任をめぐる考察。第3回は、岡田利規『エンジョイ』の持つ批評性について。 弱さの蒐集を導くのは、具体的な誰それではなく、追い払ったはずのウーティスなのではないか。 よく知られている議論だが、山本七平ならば、このような状態を「空気の支配」と表現したかもしれない。そんな話を持ち出せる空気じゃありません、だとか、その場の空気では……、といったかたちで、日本では決定を必要とする場面において、個人の決断よりも場の「空気」が優位を得て、ひたすらこれに流されていく。しかも、そのウヤムヤな決定過程には合理的