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2011年3月6日のブックマーク (12件)

  • 藤原純友 - Wikipedia

    藤原 純友(ふじわら の すみとも)は、平安時代中期の貴族・海賊。藤原北家、右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐・藤原良範の三男[5]。弟に藤原純乗がいる。官位は従五位下[5][注釈 1]・伊予掾[5]。 瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知られる。純友の乱は関東で平将門が起こした乱と併せて承平天慶の乱と呼ばれる。 歌川国芳画 出生地、故郷は現在まで不明だが、伊予国(現在の愛媛県)だという説が最も有力である。藤原氏の中で最も栄えた藤原北家の出身で大叔父には藤原基経がいるが、早くに父を失い、都での出世は望むべくもなく地方官となる。 当初は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧する側にあった。帰任後に海賊追捕宣旨を賜り、承平6年(936年)3月頃に再度伊予国に下向した[6]。『日紀略』承平6年6月某日条によれば、この頃海賊の頭領となり[注釈 2]、伊予(

    藤原純友 - Wikipedia
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    moonpiece22 2011/03/06
    伊予の海賊
  • 塩飽諸島 - Wikipedia

    歴史[編集] 海流の速い備讃瀬戸海峡に位置していることもあり、塩飽諸島の住民は古代から通商と海上交通(操船)で生計を立てた[2]。源平合戦における屋島の戦い、建武の新政から離反し九州に逃れた足利尊氏の再上洛の戦い、倭寇などで活動したとする説がある。また、法然が1207年(建永2年・承元元年)の承元の法難の際、流刑先の讃岐国にむかう途中、一時滞在している[3]。 海賊島として知られたこともあったが、鎌倉時代以降に海賊は藤原家資によって平定され、島はその子孫の宮氏によって統治された[4]。 近世[編集] 16世紀になると操船に長けた島の船乗りたちは塩飽水軍として知られるようになり、瀬戸内海にとどまらず遠くにまで名を馳せた[2]。戦国時代には租税となる米などの貴重品の輸送や高官の移動などに貢献し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康からも高く評価された[2]。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉は朱印

    塩飽諸島 - Wikipedia
  • 第2章 真鍋島の歴史

    【 真 鍋 島 及 び 水 軍 関 係 略 史 】 西 暦 (年  号)       記              事 555 (欽明一六) 吉備白猪に屯倉置く 556 (欽明一七) 吉備児島に屯倉置く 645 (大化 元) 大化の改新 661 (斉明 七) 新羅征討の軍進発 663 (天智 二) 白村江の戦い(日軍、唐の水軍に惨敗) 684 (天武一二) 吉備国の分国(備前国、備中国、備後国に分割)により小田郡編制 ・真鍋島は備中國小田郡魚渚(いおすな)郷に属す 『小田郡誌』 ・「眞南辺(眞那辺、眞奈辺)」と書かれていた  《眞鍋島伝承》 713 (和銅 六) 吉備国の再分国(備前、備中、備後、美作の四国に分割) 畿内七道諸國郡郷名着好字の制 ・「地名は好事を選び必ず二字にせよ」と勅令により「眞鍋」と改名 756 (天平 八) 山陽南海諸国の春米の海路運送命令 806 (大同 元) 山

  •          備中国真鍋島の開発主真鍋一族の系譜

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    moonpiece22 2011/03/06
    "いま全国を通じて「真鍋」の地名が顕著なのは、常陸だけである"とある。"沢津"の記述、地図、家系図など数箇所あり
  • 真鍋島 - Wikipedia

    真鍋島(まなべしま)は、岡山県笠岡市にある笠岡諸島に属する島である。[1]古い漁村の面影を残した家並みがあり岡山県のふるさと村に指定されており[2]、1977年(昭和52年)の映画『獄門島』や1984年(昭和59年)の映画『瀬戸内少年野球団』のロケ地となった。中四国沿岸部に多い真鍋姓の発祥地でもある。 近年は人口よりの生息数が多いという「の島」としても知られるほか[3][4]、フランス人イラストレーターのフロラン・シャヴエが2010年に刊行したイラスト滞在記「ManabeShima Island Japan」[注釈 1][5][6]により外国人観光客にも知られるようになっている。 2019年5月20日に、「知ってる!? 悠久の時が流れる石の島 ~海を越え,日の礎を築いた せとうち備讃諸島~」を構成するひとつの島として、日遺産に認定された。[7]

    真鍋島 - Wikipedia
  • 岩城島 - Wikipedia

    岩城島(いわぎじま)は、愛媛県北東部に位置する離島。芸予諸島のうち赤穂根島などとともに上島諸島に属する[1]。行政区画は愛媛県越智郡上島町。 島の中央にそびえる積善山は、三千に及ぶ桜の名所としても知られている。これらの観光資源を活用した観光客誘致や、1985年からは「青いレモンの島」のキャッチフレーズで、島特産のレモンを利用した産業振興策に取り組み始め、今日では一定の評価を得ている。さらに、1990年代からはグリーンツーリズムなどにも取り組んでいる。 自然[編集] 岩城港と岩城地区 積善山山頂から、生名島・因島方面を望む 祥雲寺 生口島の洲江港と岩城島の小漕港(手前)。右側には西瀬戸自動車道の生口島橋 島の中央に位置する標高370メートルの積善山を中心とし、やや膨らんだ三角形の形をした小島である。 属島として、赤穂根島、津波島などがある。 西方7kmより 地理[編集] 生口島の南に位置す

    岩城島 - Wikipedia
  • 眞鍋、真鍋、真部、真辺、間部、まなべ家のルーツ

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    moonpiece22 2011/03/06
    備中國真鍋島『真鍋先祖継圖』に”サウツノ七郎”の名あり。真鍋島にかつて沢津城があった。
  • 村上源氏 - Wikipedia

    源氏には祖とする天皇別に二十一の流派(源氏二十一流)があり、村上源氏はそのうちの一つで村上天皇から分かれた氏族である。 致平親王、為平親王、具平親王の各皇子を祖とする3つの流派がある。その中でも具平親王の子孫の中院流が最も栄え、久我家(嫡流)や中院家を始めとして10家の堂上家を輩出し、源氏系の公卿では筆頭を占めた。 村上源氏の中でも最も栄えたのは、具平親王の子・資定王(のち源師房)の中院流の流れである。資定王は2歳で父親と死に別れ、姉である隆姫女王に育てられた。隆姫が後に摂政藤原頼通の正室となると、子供のなかった頼通は養子縁組をするために資定王を臣籍降下させ、源師房と名を改めた。頼通の父・藤原道長も師房を寵愛して娘の尊子を嫁がせた上に、頼通に男子が生まれなければ師房を藤原氏に改姓させて摂関家を相続させても構わないと言ったとされている。 師房が摂家を継ぐことはなかったものの、師房の娘・麗子は

    村上源氏 - Wikipedia
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    moonpiece22 2011/03/06
    源氏のうち貴族・公家・華族の家柄。久我家-中院家-北畠家とつながる。
  • 村上水軍 - Wikipedia

    この項目では、瀬戸内海の水軍(海賊)について説明しています。日イラストレーターについては「村上水軍 (イラストレーター) 」をご覧ください。 能島村上家の過所船旗 天正玖年(1581年) 重要文化財(山口県文書館蔵) 村上水軍(むらかみすいぐん)は、日中世の瀬戸内海[1]で活動した水軍(海賊衆)である。その勢力拠点は芸予諸島を中心とした中国地方と四国地方の間の海域であり、その後大まかに能島村上家、因島村上家、来島村上家の三家へ分かれた。 彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されている。また、今も瀬戸内周辺地域には村上水軍の末裔が多く住む。主な活動は輸送、航行船の破壊・略奪や信書の開封・破棄等を通じた同盟関係の分断、それらを行わずに安全を保障する代わりに、芸予諸島の海峡を関所(札浦)に見立てた通航料の徴収である。平時は漁業にも従事した[2]。20世紀まで瀬戸内海で見ら

    村上水軍 - Wikipedia
  • 信濃村上氏 - Wikipedia

    この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。 出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2017年1月) 脚注による出典や参考文献の参照が不十分です。脚注を追加してください。(2017年6月) 出典検索?: "信濃村上氏" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL

    信濃村上氏 - Wikipedia
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    moonpiece22 2011/03/06
    南朝方についていた流れが村上水軍を継いだ
  • 北畠親房 - Wikipedia

    北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿、歴史家。著書の『神皇正統記』で名高い。源氏長者、南朝従一位准大臣、准三后。贈正一位。後醍醐天皇側近「後の三房」の筆頭。後村上天皇の治世下でも、興国5年/康永3年(1344年)春に吉野行宮に帰還してから、正平9年/文和3年4月17日(1354年5月10日)に没するまで、南朝を実質的に指揮した。建武の元勲の1人。 血筋上の父は北畠師重だが、実の祖父である北畠師親の養嫡子となる。これは、実父師重が、斜陽の傾向にある後宇多天皇の側近であったため、今後皇位継承の可能性が薄い後宇多系の公卿として公家社会にデビューするよりも、次期東宮予定者である恒明親王系(亀山天皇の側近・師親の養子)としてデビューする方が政治的に安全であったからであると考えられる[2]。 北畠家は、村上源氏の流れを汲む名門であり、正応6年(1293年)6月24日、

    北畠親房 - Wikipedia
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    moonpiece22 2011/03/06
    常陸国へ下り『神皇正統記』等執筆。長男・北畠顕家の子、村上師清が村上水軍の祖
  • 阿部野神社

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    moonpiece22 2011/03/06
    「北畠親房・顕家親子」を祀る