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文永の役に関するmoritataのブックマーク (5)

  • 元寇「文永の役・弘安の役」は実際どんな戦いだった? 神風は?

    鎌倉時代で最も有名な出来事と言えば、やっぱり【元寇】でしょう。 「お前ら、属国になれ」というモンゴル帝国の要求を二度に渡って拒絶。 その結果、 で【神風】吹いてバンザ~イ!と皆さん歴史の授業で習ったと思います。 ところが、台風ってどうなのよ、というのが最近の見方。 文永11年(1274年)10月5日に元軍が対馬・壱岐へ襲来して始まった――元寇とは一体なんだったのか? 稿では「御家人たちが頑張りました」で終わりにせず、当時の背景や戦闘経過なども見ていきたいと思います。 鎌倉当時は「蒙古襲来」等と呼ばれていたまず「元寇」という名称。 後世になってから名付けられたもので、鎌倉当時は「蒙古襲来」や「蒙古合戦」などと呼ばれていました。 「元寇」という単語は江戸時代あたりに出てきたようです。 「寇」という字には「侵入してくる敵」という意味があるので、意味合いとしては「蒙古襲来」などとほとんど変わりま

    元寇「文永の役・弘安の役」は実際どんな戦いだった? 神風は?
  • 【蒙古襲来】世界最強『モンゴル帝国』が攻めてきた! - ニホンシログ

    鎌倉時代に起こった2度にわたるモンゴル帝国による日侵攻(元寇)。 なぜ、モンゴルは2度も日を侵攻しようとしたのか? そして、『神風』が日を救ったという話の真実は? 日建国史上最大の危機と言われた『元寇』、日はどのようにモンゴル帝国軍に勝利したのでしょうか? めちゃくちゃ強かったモンゴル帝国 『フビライ・ハーン』に目をつけられた日 『南宋』攻略の一環として 第1ラウンド『文永の役』 日式の戦い方で大苦戦 日軍の押し返し 第1ラウンド終戦 第2ラウンド『弘安の役』 沿岸の防御力強化 執拗に日を狙うモンゴル帝国 大船団襲来 踏んだり蹴ったりの東路軍 神風 めちゃくちゃ強かったモンゴル帝国 当時のモンゴル帝国はいったいどのくらい強かったのか? まずは、支配面積をみてみましょう。 西はトルコから、東は朝鮮半島まで、南はミャンマーまで支配。 実に地球上の陸地の約25%を統治していたの

    【蒙古襲来】世界最強『モンゴル帝国』が攻めてきた! - ニホンシログ
    moritata
    moritata 2017/01/09
    歴史家と教科書の罪は重いなぁ… この内容実際とは全然違うし。文永の役では博多湾では遭難してない(元々そんな記録はない)上に最初から集団戦術で戦ってる。皮肉なことに「蒙古襲来絵詞」でちゃんと書かれてる。
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  • 元寇はなぜおきたか(文永の役)

    「天に守られている大蒙古国の皇帝から日国王にこの手紙を送る.昔から国境が接している隣国同士は,たとえ小国であっても貿易や人の行きなど,互いに仲良くすることに努めてきた.まして,大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり,はるか遠方の国々も,代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている. 例えば私が皇帝になってからも,高麗(こうらい=朝鮮)が蒙古に降伏して家来の国となり,私と王は父子の関係のようになり,喜ばしいこととなった.高麗は私の東の領土である.しかし,日は昔から高麗と仲良くし,中国とも貿易していたにもかかわらず,一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく,国交をもとうとしないのはどういうわけか?日が我々のことを知らないとすると,困ったことなので,特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝えよう. これから日と大蒙古国とは,国と国の交わりをして仲良くしていこうではない

    moritata
    moritata 2017/01/08
    読んでみたけど、大昔の間違った説での解説だった…削除するか修正するなどして欲しい。
  • 勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:朝日新聞デジタル

    モンゴル帝国(元)の襲来を、鎌倉武士が2度にわたってい止めた「元寇(げんこう)」。文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)とも長年、暴風雨(神風)が勝因とされてきたが、近年、新たな見方が浮上している。 今まで「元寇」はおおむね次のような経緯だったとされてきた。 1274(文永11)年、900隻、4万人の元軍が対馬と壱岐を攻略。鷹(たか)島(長崎県)上陸後、博多湾まで進出したが、暴風雨に遭い退却(文永の役)。 続く1281(弘安4)年、朝鮮発の東路軍と中国発の江南軍の4400隻、14万人が攻め寄せたが、日側の防戦で一時撤退。さらに鷹島に停泊中の船団を暴風雨が襲ったため、退却(弘安の役)。その後、皇帝フビライは3度目の日遠征を計画したが、亡くなったため、沙汰やみとなった。 危機に大風が吹き、異国の敵が追い払われたことから、2回にわたる暴風雨は「神風」といわれ、第2次世界大戦中には、

    勝因は「神風」ではなかった? 「元寇」に新たな見方:朝日新聞デジタル
    moritata
    moritata 2017/01/08
    朝日新聞の「近年」は数十年前の話なんだろうな。元寇の様な戦の話は歴史家だけでは評価出来ないのを証明した話。日本側が善戦して実力で阻止したのはとっくに知られた話。勉強不足も甚だしい 。http://amzn.to/2iQQ4tE
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