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マスメディアとポンプに関するmorobitokozouのブックマーク (10)

  • 草の根BBS乱立時に一番おもしろかったのは「いがらしみきお」 (1/2)

    インターネットが普及するはるか前に、インターネットのようなものを作った男がいた。彼の名を橘川幸夫(きつかわゆきお)という。 大学在学時の1972年に渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏らと「ロッキング・オン」を創刊。その後、完全投稿制による雑誌「ポンプ」を1978年に創刊というのが彼の主なプロフィール。彼が辞めて以降のロッキング・オンは当たり前の商業音楽誌になったが、ポンプは最初から現在のソーシャルメディアのプロトタイプのようなものとして設計されていた。早過ぎたインターネットだったのだ。 しかし、現在のインターネットはポンプの刊行時に思い描いていたようなバラ色の世界をもたらさなかったし、良くも悪くもソーシャルメディアの雰囲気が世界の行方を左右するような兆候すら見られる。この先、インターネットやメディアはどうなればいいのか。 よし、早過ぎたインターネットを作った人に聞いてみよう! ということで連載第9

    草の根BBS乱立時に一番おもしろかったのは「いがらしみきお」 (1/2)
  • ネットメディアは良質な投稿とレスポンスじゃないといけない (1/2)

    インターネットが普及するはるか前に、インターネットのようなものを作った男がいた。彼の名を橘川幸夫(きつかわゆきお)という。 大学在学時の1972年に渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏らと「ロッキング・オン」を創刊。その後、完全投稿制による雑誌「ポンプ」を1978年に創刊というのが彼の主なプロフィール。彼が辞めて以降のロッキング・オンは当たり前の商業音楽誌になったが、ポンプは最初から現在のソーシャルメディアのプロトタイプのようなものとして設計されていた。早過ぎたインターネットだったのだ。 しかし、現在のインターネットはポンプの刊行時に思い描いていたようなバラ色の世界をもたらさなかったし、良くも悪くもソーシャルメディアの雰囲気が世界の行方を左右するような兆候すら見られる。この先、インターネットやメディアはどうなればいいのか。 よし、早過ぎたインターネットを作った人に聞いてみよう! ということで連載第7

    ネットメディアは良質な投稿とレスポンスじゃないといけない (1/2)
  • デヴィッド・ボウイからパンクの移行は商業ロックへの反動だった (1/2)

    インターネットが普及するはるか前に、インターネットのようなものを作った男がいた。彼の名を橘川幸夫(きつかわゆきお)という。 大学在学時の1972年に渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏らと「ロッキング・オン」を創刊。その後、完全投稿制による雑誌「ポンプ」を1978年に創刊というのが彼の主なプロフィール。彼が辞めて以降のロッキング・オンは当たり前の商業音楽誌になったが、ポンプは最初から現在のソーシャルメディアのプロトタイプのようなものとして設計されていた。早過ぎたインターネットだったのだ。 しかし、現在のインターネットはポンプの刊行時に思い描いていたようなバラ色の世界をもたらさなかったし、良くも悪くもソーシャルメディアの雰囲気が世界の行方を左右するような兆候すら見られる。この先、インターネットやメディアはどうなればいいのか。 よし、早過ぎたインターネットを作った人に聞いてみよう! ということで連載第5

    デヴィッド・ボウイからパンクの移行は商業ロックへの反動だった (1/2)
  • 新しい技術を使って儲けるために知っておくべきコツ (1/2)

    インターネットが普及するはるか前に、インターネットのようなものを作った男がいた。彼の名を橘川幸夫(きつかわゆきお)という。 大学在学時の1972年に渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏らと「ロッキング・オン」を創刊。その後、完全投稿制による雑誌「ポンプ」を1978年に創刊というのが彼の主なプロフィール。彼が辞めて以降のロッキング・オンは当たり前の商業音楽誌になったが、ポンプは最初から現在のソーシャルメディアのプロトタイプのようなものとして設計されていた。早過ぎたインターネットだったのだ。 まず、文章にしても写真にしても、100%素人の投稿で成り立っている一般流通誌はほかになかったし、テーマやキーワード、地域で分けられた投稿、それらすべてにレスポンスが付く仕組み、読者主催のオフラインミーティングや、投稿者の中から岡崎京子やデーモン小暮のような有名人を輩出するなど、機能・現象の両面で現在のソーシャルメデ

    新しい技術を使って儲けるために知っておくべきコツ (1/2)
  • 「締切は不愉快」 いま明かされるロッキング・オン創刊秘話 (1/2)

    インターネットが普及するはるか前に、インターネットのようなものを作った男がいた。彼の名を橘川幸夫(きつかわゆきお)という。 大学在学時の1972年に渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏らと「ロッキング・オン」を創刊。その後、完全投稿制による雑誌「ポンプ」を1978年に創刊というのが彼の主なプロフィール。彼が辞めて以降のロッキング・オンは当たり前の商業音楽誌になったが、ポンプは最初から現在のソーシャルメディアのプロトタイプのようなものとして設計されていた。早過ぎたインターネットだったのだ。 まず、文章にしても写真にしても、100%素人の投稿で成り立っている一般流通誌はほかになかったし、テーマやキーワード、地域で分けられた投稿、それらすべてにレスポンスが付く仕組み、読者主催のオフラインミーティングや、投稿者の中から岡崎京子やデーモン小暮のような有名人を輩出するなど、機能・現象の両面で現在のソーシャルメデ

    「締切は不愉快」 いま明かされるロッキング・オン創刊秘話 (1/2)
  • 深夜放送はイノベーション、橘川幸夫が語る1960年代のラジオ (1/2)

    インターネットが普及するはるか前に、インターネットのようなものを作った男がいた。彼の名を橘川幸夫(きつかわゆきお)という。 大学在学時の1972年に渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏らと「ロッキング・オン」を創刊。その後、完全投稿制による雑誌「ポンプ」を1978年に創刊というのが彼の主なプロフィール。彼が辞めて以降のロッキング・オンは当たり前の商業音楽誌になったが、ポンプは最初から現在のソーシャルメディアのプロトタイプのようなものとして設計されていた。早過ぎたインターネットだったのだ。 まず、文章にしても写真にしても、100%素人の投稿で成り立っている一般流通誌はほかになかった。テーマやキーワード、地域で分けられた投稿、それらすべてにレスポンスが付く仕組み、読者主催のオフラインミーティングや、投稿者の中から岡崎京子やデーモン小暮のような有名人を輩出するなど、機能・現象の両面で現在のソーシャルメディ

    深夜放送はイノベーション、橘川幸夫が語る1960年代のラジオ (1/2)
  • 「ロックはミニコミ」早過ぎるインターネット作った橘川幸夫が語る (1/2)

    インターネットが普及するはるか前に、インターネットのようなものを作った男がいた。彼の名を橘川幸夫(きつかわゆきお)という。 大学在学時の1972年に渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏らと「ロッキング・オン」を創刊。その後、完全投稿制による雑誌「ポンプ」を1978年に創刊というのが彼の主なプロフィール。彼が辞めて以降のロッキング・オンは当たり前の商業音楽誌になったが、ポンプは最初から現在のソーシャルメディアのプロトタイプのようなものとして設計されていた。早過ぎたインターネットだったのだ。 まず、文章にしても写真にしても、100%素人の投稿で成り立っている一般流通誌はほかになかった。テーマやキーワード、地域で分けられた投稿、それらすべてにレスポンスが付く仕組み、読者主催のオフラインミーティングや、投稿者の中から岡崎京子やデーモン小暮のような有名人を輩出するなど、機能・現象の両面で現在のソーシャルメディ

    「ロックはミニコミ」早過ぎるインターネット作った橘川幸夫が語る (1/2)
  • まるで2ちゃんねる、すべて投稿で成り立たせた雑誌「ポンプ」 (1/2)

    インターネットが普及するはるか前に、インターネットのようなものを作った男がいた。彼の名を橘川幸夫(きつかわゆきお)という。 大学在学時の1972年に渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏らと「ロッキング・オン」を創刊。その後、完全投稿制による雑誌「ポンプ」を1978年に創刊というのが彼の主なプロフィール。彼が辞めて以降のロッキング・オンは当たり前の商業音楽誌になったが、ポンプは最初から現在のソーシャルメディアのプロトタイプのようなものとして設計されていた。早過ぎたインターネットだったのだ。 しかし、現在のインターネットはポンプの刊行時に思い描いていたようなバラ色の世界をもたらさなかったし、良くも悪くもソーシャルメディアの雰囲気が世界の行方を左右するような兆候すら見られる。この先、インターネットやメディアはどうなればいいのか。 よし、早過ぎたインターネットを作った人に聞いてみよう! ということで連載第6

    まるで2ちゃんねる、すべて投稿で成り立たせた雑誌「ポンプ」 (1/2)
  • 40年前にTwitterを実現していた雑誌「ポンプ」が見た限界 (1/2)

    インターネットが普及するはるか前に、インターネットのようなものを作った男がいた。彼の名を橘川幸夫(きつかわゆきお)という。 大学在学時の1972年に渋谷陽一、松村雄策、岩谷宏らと「ロッキング・オン」を創刊。その後、完全投稿制による雑誌「ポンプ」を1978年に創刊というのが彼の主なプロフィール。彼が辞めて以降のロッキング・オンは当たり前の商業音楽誌になったが、ポンプは最初から現在のソーシャルメディアのプロトタイプのようなものとして設計されていた。早過ぎたインターネットだったのだ。 しかし、現在のインターネットはポンプの刊行時に思い描いていたようなバラ色の世界をもたらさなかったし、良くも悪くもソーシャルメディアの雰囲気が世界の行方を左右するような兆候すら見られる。この先、インターネットやメディアはどうなればいいのか。 よし、早過ぎたインターネットを作った人に聞いてみよう! ということで連載第8

    40年前にTwitterを実現していた雑誌「ポンプ」が見た限界 (1/2)
  • 参加型社会宣言(2)DeNAのキュレーション・サイト問題について。橘川幸夫|橘川幸夫

    (1)「体験」と「実感」 DeNAのキュレーション・サイトが無断引用や事実誤認のまま医療情報などを公開していたことに対する批判を浴びた。この問題は、「インターネットとは何か」「インターネットにおける情報とは何か」という根的な問題を考える契機になるだろう。 僕は1972年にロックの投稿雑誌「ロッキング・オン」、1978年に全面投稿雑誌「ポンプ」を創刊して以来、参加型メディアを追求してきた。紙の参加型メディアでは、どうしても全部掲載出来なくて、没が出てしまう。その対応策として、コンピュータによる電子メディアを追求してきた。電子メディアにおいては「メディアの面積が無限大」であり、没のない投稿雑誌が可能だと思ったからだ。1983年に、僕の事務所の仲間たちが「データベース、電子図書館の検索法」(東洋経済新報社)というを出した。電子通信メディアのとしては、かなり早い時期の書籍になると思う。 80

    参加型社会宣言(2)DeNAのキュレーション・サイト問題について。橘川幸夫|橘川幸夫
    morobitokozou
    morobitokozou 2016/12/11
    ポンプの「いまここ」は今思うとTwitter感あった。
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