社会学は自分の中の『気持ち悪い』という感情を分析して俯瞰する学問だったはずなんだけど、北田先生たちの社会運動の完全な失敗によって『気持ち悪いと感じる私の感情は社会を変革する正義の力』みたいなモンスターイデオロギーがネットで育ってし… https://t.co/QRUx4K4XSE
社会学は自分の中の『気持ち悪い』という感情を分析して俯瞰する学問だったはずなんだけど、北田先生たちの社会運動の完全な失敗によって『気持ち悪いと感じる私の感情は社会を変革する正義の力』みたいなモンスターイデオロギーがネットで育ってし… https://t.co/QRUx4K4XSE
「この指とめよう」公式アカウントが「ネトウヨや与党支持者の発言は全て禁止にしても良い」というツイートに「いいね」していた事実をどのように認識していますか? https://t.co/w6LJrjzQJo https://t.co/eNT99XWmFk
時事の話題に関して。 なんだか「優性思想」だとか「ナチス的」だとかそんな物騒な言葉がちらほら目に入ったので、ちょっと思うところを書いてみる。けど、一部の「強い正義感と信念」を持った人を除けば、全然目新しいことじゃない。いわゆる「ノンポリ」と言われるような人ならたぶん、誰もがうっすらと普通に思っていることだと思う。 現代社会において、ナチスは巨悪の代名詞。そこに「正しさ」を見出すことなど一切できず、完全かつ純粋な悪とされてきた。フィクション作品でもなんでも、ナチスを出せば絶対悪。グラデーションは、ほぼない。まあ、旧日本軍も似たような扱いを受けるのが常だろうけれども、そこは、勝てば官軍負ければ賊軍という定番の話でもある。 もっとも、ジョジョやキン肉マンなどの日本の作品を見れば、少なくともフィクション作品における表現は、昔はもうちょっと緩かった気もする。日本だからだったのかも知れないけれども。
風倉@こぴーらいたー作家 @kazakura_22 オタクの必修科目であるどころか、過剰摂取で飽き飽きすらしている「正義の反対はまた別の正義である」とか「人は正義に酔った時、最も残虐になれる」とか「私こそ正義とか言い出す奴が一番信用ならない」とかを 普通の人は履修してないのかもしれない…… まいと(ヨシ) @sakumai000 @kazakura_22 それだけ、この「正義」というものが人の心に突き刺さるものではあるんでしょうけど、数十年前のアニメやマンガにすら描かれている、「お前の正義や思想は唯一絶対のものではない」という真理を理解できない方がいますね。 ラムジー @ramuzizizi @ozappaniaisatsu @kazakura_22 「正義の反対はまた別の正義である」という理論も第三者から見ればどちらが正しいのか明白な場合もあって(要は正義だと信じてたものが間違ってたもの
4月1日なので「嘘」に関連する話題でも。 www.u-tokyo.ac.jp 最近の世界情勢を見渡すと、何が真実かよりも、何が多くの人々の感情を揺さぶるかということがより重要視されているように感じます。まさに「ポスト・トゥルース」時代に突入してしまったと言えるのかもしれません。そしてこうした風潮は、安易な多数派偏重を生みます。これは、少数意見の声に耳を傾け、多様性を尊重し、皆で結論を導き出すという、民主主義の本来の理念に反するものです。 私たちは、ついつい自分が主流派・多数派に属していると思い込むことで安心を得ようとします。翻って、自分と異なる他者に対しては「変わり者」や「異端」のレッテルを貼りがちです。一方で、多数派に属しているつもりだった自分が、何かのはずみで突然「異端」の側に立たされてしまうという事態が、いとも簡単に起こりえるのです。だからこそ、多様性を尊重するということの重要性を、
社会正義が関係すると我々の脳は世界を極端に2極化する。”我々”か”我々以外の彼ら”か。仲間意識の持つ恐ろしさ 記事の本文にスキップ 反移民政策、人種差別問題、同性婚の法制化などなど…ほぼ毎日、ニュース記事のタイトルとなっているこれらの問題はとかく人々の興味を良く引くものだ。 これらに関するよく考察された記事ですら、大抵の場合、双方の陣営によるいがみ合いに発展してしまう。すなわち黒人対白人、女性対男性、ゲイ対ストレートといった具合に単純に2極化されてしまうのだ。 生物の最も根本的なレベルにおいて、人は人を区別する利点を知っている。 だが同じ種の中においてさえ、自分と似た者に安心し、違う者に不快感を感じさせるものが神経回路に備わっているのだろうか? 不信と報酬との間でせめぎ合う脳 あらゆる動物にあるように、人間の脳は二つの根本的なシステムのバランスをとっている。 一つは、危険(例えば、肉食動物
anond.hatelabo.jp この『はてな匿名ダイアリー』をみて、僕も以前、なぜ「正義」ではなくて、「正義の味方」なのだろうか?と、疑問になったことを思い出したのです。 実は「正義の味方」という表現は、ずっと昔からあったわけではなくて、太平洋戦争が終わってしばらく経った1958年に放送がはじまった『月光仮面』で使われ始めたのです。 fujipon.hatenadiary.com 『クイック・ジャパン』創刊当初の名物企画から生まれたインタビュー集『篦棒(ベラボー)な人々』のなかで、『月光仮面』の原作者であり、「正義の味方」という表現をつくった川内康範さんが、こんな話をされています。 川内康範:月光仮面は月光菩薩に由来しているんだけど、月光菩薩は本来、脇仏なんだよね。脇役で人を助ける。月光仮面もけっして主役じゃない。裏方なんだな。だから「正義の味方」なんだよ。けっして正義そのものではない
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く